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2011.10.31 17:08|未分類
5月1日(木)18:07
aikoの四字を見るだけで泣きたくなる。けれども、当然泣くことなどできない。

5月4日(日)1:23
「音楽」。それを見ることを通して、自分の求めるものを知る。聞いたところから、生活が始まる。聞かなければ始まらない。求めるものを知ることもなく、死んでいく。

それを聞くことで、自分について知ることができない音楽を聞くような余裕はいまのところ、ぼくにはまだない。それを聞くことで、自分がなにかを求めている声がかすかにでも聞き取れない音楽を聞くような余裕はまだない。それを聞くことで、ぼくが自らを叱責することのない音楽を聞くような余裕はまだない。

5月6日(火)20:49
大いに泣いた。棒切れを手にとって、その曲を練習台でやった。自分の中では自分の音楽が鳴っている。泣きながら棒切れで練習台を殴りまくった。殴ったところでどうなるというわけでもないけれど、自分の気持ちにひとつの区切りができるんじゃないか、という記念の気持ちでやった。殴り終わると、また泣いた。自分のための演奏。自分の音楽は、自分がいちばん理解している。結局、そのときは、そのときに生まれる自分の音楽が聞きたかったんだ。俺は自分の音楽を通して見ることの出来る「人間」というものとか「生きること」を愛している。

5月6日(火)20:21
自分の生き方を自分で選べない。自分の生き方は自分以外のものによって決定されている。「それ」に反抗しようとすると、痛みが「そっち」の方向へ自分を連れ戻そうとする。自分は痛みに耐えきれずに、なかば避難するように「そっち」へ行く。自分は選べないのだ。そして痛みはなくなる。

ただ、痛みから逃れたいだけ。自分の人生に直結した、実感を伴ったフィジカルな痛みを感じていたいだけ。シンプルな言い方をすれば、自分の希望するところに向かって行きたいだけ。希望に逆行したときの、自分をどこにも連れていきはしない無益な痛みを感じていたくはないというだけ。

そのようなことを感じます。

5月6日(火)22:09
今日はみなさんに対してとても残念なお知らせがあります。今日、ぼくは22年間生きてきて、ずっと心の奥底で探し求めていた人に出会うことが出来ました。ぼくはきっと、生まれたときからずっとその人のことを探し求めていたのでしょう。そして、その人のことを見付けたのが、たまたま、22年間生きたのちの、今日という日だったのであります。

その子はアイコにはまったく似ていません。恐らく、奥ぶたえですらありません。きれいな二重です。薄い顔でもありません。かと言って濃い顔でもありません。正統派な顔です。はっきりとした眼をしています。真っ直ぐと伸びた眉毛に意志の強さが感じられます。髪の毛は茶色で、短いです。顔は丸い印象です。声もアルトで、はっきりしています。きびきびとした挙動をしています。健康で、仕事が出来るという印象を受けます。そして聡明そうな顔つきをしている。

その人は、アイコとはまったく別のラインに属しています。いままで、女の子を見てかわいいと思うとき、殆んどがアイコのラインに属していたのですが、それは結局、ぼくはアイコが好きで、それに替わるものを求めていたのかもしれません。

しかし、今回出会ったその子は、アイコを超えてしまったのかも知れません(アイコを目前に見たことがないからなんとも言えないが)。

だから、ぼくはいま、生まれてはじめて濃いというものをしたのかもしれません。なんというか、ぼくがいままで生きてきたのはその子に出会うためだった、という気さえするのです。その子に出会うことで、ぼくのいままでの人生がすべて肯定されたような気がするのです。

その子は、ぼくの家のすぐ近くの、家から歩いて五分くらいの、ぼくが普段いちばんよく利用するコンビニである、セブンイレブンの店員さんでした。少なくとも2週間前までは見たことがありませんでした。おそらく、この4月に新しく入ったのでしょう。

ぼくはもちろん、そこで酢だこさん太郎をその店員さんのところまで持っていき、それを買って、名札を見て名前も確認して、店を出たあと、外にアルバイト募集の貼り紙がしていないか、確認しました。運よく、募集の紙は貼ってありました。

まだ、この事件に動揺するばかりで、なんとも言えないのですが、ぼくはおそらくここで働くことになるだろうと思います。そしてその子と付き合うことを目標にするだろうと思います。

名前は「みま」と書いてありました。その子を見ると、懐かしい感じがしました。物心のついた頃に帰るような気がしました。

ぼくのいままでにしてきた努力の意味するものが、はじめて理解できたような気がします。

5月7日(水)13:36
彼の写真自体は多分に主観的なのだが、彼自身は自分と自分の写真を切り放して見ているように見えるね。つまり、その写真をとった彼は、もうこの世には存在していないというわけだ。ある程度無責任でいられるわけだよ。

5月7日(水)14:22
悲しみと喜びはほとんど紙一重だ。悲しいようで嬉しいようで泣き出したいようで顔が笑うようで、ぼくはいま幸せだ。幸せとしか謂い様がない。

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2011.10.30 23:04|未分類
4月21日(月)12:22
いつかの法律の授業とか、ふたつの大教室での授業で一緒になった女の子。色が白い。顔が丸い。ジーパンティーシャツスニーカー。髪を短く後ろで結んでいる。文芸が好きそうな服装。センスはあるが、派手ではない。顔も最高。アイコには似ていない。今日はティッシュ箱を持ってきていて、机において始終鼻をかんでいた。マスクもつけていた。大教室の一番前の端の二人がけの机にひとりで座っていた。この人は一人で行動することが多いのかもしれない。以前、ふたつの授業で見掛けたときも、友達とではなくひとりで教室に座っていた。文学部にこういう女の子は多いような気がする。俺は文学部系の女の子が好きだ。友達になりたい。

4月21日(月)12:56
なぜなら俺のスウィートハートは俺が二年前からウォッチングユーしているあの娘に移ったから。そして俺の後ろの方では小林が何やら騒いでいるのが聞こえる。そしていま、教室の前の方を赤いスニーカー、青いジーンズ、黄色いコート、黄色いハチマキをした女が通った。顔は飛鳥美人。

4月22日(火)17:59
アイコの音楽を聞いているときは、自分が何を求めているのか、世界のうちに何に価値を見出しているのかが判るような気がする。だから、アイコの音楽に「帰ってきた」ときに、「アイコの音楽を聞いていなかった間、俺は大切なものを失ったまま、無駄に生きていただけに過ぎなかったんじゃないか」とか考えてしまう。でも、大切なものを掴みながら生きていることと、それを見失ったまま生きていることとの間にはどれほどの違いがあるのだろう?それらを自分に見分けることはできるのか?どちらにあるかによって、生活の内容は左右するのか?ただ、意味もなく悲観しているだけなのか?生活の内容は、「大切なものを掴んでいる」、あるいは「見失っている」こととは別のところにあるのか?

とにかく、もう長い間、アイコ以外の音楽を聞いても、何かを強く感じることはないんです。ひとごとな感じなんですよ。かっこいいとか思うことはあるけど、自分とは無関係な感じでね、実感がなくてね、ひとごとなんだ。

4月26日(土)21:07
困るのは、自分の愛の大きさが定まっていないこと。これから大きくなっていくことは判っているのに、どれくらいの大きさにまで成長するのか、どのようなかたちに成長するのかが判らないこと。愛は、日々の生活の中で表現されることを通じて、大きくなることを強く欲している。俺がそれを表現し、成長するままに委せないことに対して、とても強く、反発しているように思える。自分の「愛」が満足すること。自分の「愛」が、自らのかたちに満足すること。それがいまの、目標。というか、やらなくてはならないこと。

aikoは「夢の中のまっすぐな道」というアルバムのタイトルについて、こんなことを言っている。
「夢=儚いもの、叶わないものという意味が辞書には書いてあったりするけれど、誰もがそんなことを思って夢を持っているんではなくて、それを叶えるために頑張ってる。それはaikoもそうであり、それを諦めたくない。だから凛と前を向いてまっすぐに歩いていきたい、そして、みんなにも歩んで欲しい。」

07年4月
aikoは音楽を愛している。けれども、俺は愛しているだろうか?この人ほどには愛していない。絶望的になる。愛したい。おんがくを、愛したい。aikoが、おんがくについて話しているのを見て、その、音楽をほんとうに愛しているんだ、慈しむような、尊敬、ひざまずくような、それを前にして、ぼくが音楽について何を言えるのか。俺が音楽について話したところで、それは、aikoのような、音楽を、ほんとうに愛している人を愚弄することにしかならないんじゃないか。なにが音楽だ。音楽を対象として扱っている。
2011.10.30 22:59|未分類
4月16日(水)0:28
ずーっと音楽を離れていたよ。楽器なんてもうなんヶ月も触ってねえよ。でもさ、こういうこと言うと「じゃあ音楽以外のことに積極的に取り組んでいたのか」とか訊いてくるバカが出てくるんだよね。ほら、極めて常識的な考え方をする人たちだよ。目的論者だよ。音楽以外のことに積極的に取り組むために音楽を離れる?ばっかじゃねえの?ずーっとお受験やってろよ。俺は何かのために音楽を離れたわけじゃないよ。この数ヶ月はただの空白でしかないよ。消耗しただけだ。好きでこんなところに足を突っ込まないよ。それでも、あの時はこっちに行けば少しはましな場所へ行けると感じていたんだよ。じっさい、ましな場所へ来ているのかも知れないけどね。ぜんぜん違う場所へ来ているのは確か。景色が違いすぎる。

4月18日(金)2:40
なんで俺はアイコを見ないんだろう?見ているつもりになっているだけで、実のところなにも見てはいない。見ていないことを自覚することができない。やるべきをやったと確信を持って言える一日を、もうなんヶ月も過ごしていない。後悔は嫌いだ。けれど後悔しない日はない。

4月18日(金)17:19
俺の場合で言えば、楽器をやるとき、普段押さえ付けられているものを外に出さずにはいられないのね。それはやはり、怒りに近いものだったりするんだよね。やつあたりに近い。やると、少しはすっきりするね。ある意味で、俺は普段からすごく怒ってるから。なんヶ月も楽器やってないから、そろそろ少し触りたいんだけどね。積年の鬱憤のようなものを晴らしたいね。触らないと、育っていく一方だからね。

4月19日(土)18:41
ある時期において自分を脅かすものは現実世界だった。音楽が自分の逃げ場だった。気が付くと、音楽が自分を脅かすようになった。音楽は逃げ場ではなくなった。音楽が、自分を脅かすところの現実世界にシフトした。逃げ場はなくなった。

4月20日(日)2:36
アイコのマンコの温度をアイコのはいているジーパンの上から俺のチンコに感じることでぎんぎんに勃起し、その勃起したチンコをそのままアイコのマンコに腰をくねらせながらぐりぐりと押し付けまくることで更に勃起してそのまま射精したい。

4月20日(日)17:47
アイコの音楽は、確かに歌詞に重きを置いている部分はあるけれども、その一方で、歌詞はただの契機でしかないということ、この事実の方が重いだろう。アイコがほんとうに「伝え」ようとしている内容は、歌詞の中には無いように思う。歌詞はなんでもいい、という部分は確かにある。言葉が並んでいればいいのだ。歌詞の内容と、それにアイコが付与するものと、二重のイメージがアイコの音楽にはあるように思う。歌詞の根底にあるもうひとつのイメージ(それはおそらくアイコが本当に「伝え」ようとしているところのもの)は、アイコのどの曲においても同一であるように思う。それはアイコが知覚する「世界」そのものであるように思う。アイコの信じる「価値」そのものであるように思う。それはアイコの目に映る世界のことであると思う(それはアイコの音楽そのものと言っていいんだろうけど)。

―人間は本来的に孤独である(人それぞれ、誰ひとりとして世界を同じように知覚してはいない)という事実に対して自覚的であるであろうアイコにとって、また、同じような聞き手にとって、「自分のほかにも世界を同じように知覚している人がいる」と思い込むことができるのは、なかなか悪いことではない。孤独を強く自覚していればこそ、わずかにでも繋がっていると感じることができれば、それは嬉しいことでしょう。
2011.10.30 20:50|未分類
3月9日(日)2:01
いままで外相なんてなんの意味もないとまで考えていたけれど、いまは外相がすべてと言っていいんじゃないかとさえ思う。

3月9日(日)18:49
「これをしたところで救われるわけではない」と考えていた。しかし、「救い」はあるとすれば、旨いものを食う、楽しいことをする、などの日々の雑多なそれぞれの現実生活の中にしかないということを知った。
「これが旨いからと言って、それがなんになるというのだ」違う、それにしか意味はない。

3月10日(月)14:13
生活のパターンのようなものを身に付けたいと思っているけど、ころころ状況が変わるからだめだ。結果、振り回されてばかりだ。前に進みたくても、どこが前かわからなかった。

3月11日(火)23:44
痛みがある時はつらくはない。痛みがない時は、あらゆる実感を失っているから、きつい。その両方を行ったり来たりですわ。

3月16日(日)2:46
ぼくがここ一年くらいの間に経験していることは、他の介入である。いままでは、自分がこうしたいと思う方向へ行けば、それでなんの問題もなかった。しかし、自分がこれをしようと思った時に、それを抑制しようとする力が現れ出した。「こっちへ行け」と。その時からぼくは不自由になった。

3月21日(金)17:23
内相は常に外相に対して正しく反応する。

3月22日(土)1:53
まただ。悲しみすら感じなくなっていた。痛みも、ない。久し振りの痛み、悲しさ。悲しさの向こうにみる、希望。人の生きることの悲しさ。愛しい悲しさ。世界が色付く。悲しさがない世界を求めてはいない。この悲しみ、痛み、実感からしか始まらないのだ。
愛していないんじゃない。愛せていない。愛することは難しい。
生の中にはない。かといって死を感じているわけではない。生にも死にも属さない。死を怖いとも思わない。

3月25日(火)18:43
アイコが「私は楽しむためにはどんな努力も惜しまない」と言ったのは、その前に外相をおろそかにしてきた経験があったからだ。そうでなければ、こんなに強い言葉にはならないだろう?決心が感じられるからな。

4月7日(月)17:32
アイコの音楽を聞いて、死にたいと思うのは、現在の生を否定して未来に肯定できる生をつくっていこうと思わせられるから。いまいる場所から抜け出したいだけ。音楽にそういう力があるのは、アイコ自身がそう感じているから。音楽を聞く人は、それをつくった人と同じものを吐き出す。そしてひとつ、違う場所に移動することができる。聞いている側も、「歌って」いるのだ。そういう意味で音楽をやる側も聞く側も、大した違いはない。だから、たとえば、俺が聞きたくもない音楽を聞いているとき、部屋には緊張感のようなものが現れるけど、アイコの音楽なりを聞いているときは、調和した空気のようなものが、部屋には流れる。みんな、気分がよくなる。ごくありふれたことだけど、まあそういうこと。

4月7日(月)17:36
自分の希望を扱うのが難しい。ねじまき。「…ときどきそれが自分の手に負えなくなってしまうんだ。私はそれが私の中で勝手に膨らんだり縮んだりして私を揺さぶるときの感じをなんとか人に伝えたいのよ。でもそれはわかってもらえない」。

4月14日(月)21:48
「アイコのこの曲をあまり聞いていないから俺はアイコをあまり好きではないのだ」「アイコのアルバムを通して聞いたことはあまりないから俺はアイコをあまり好きではないのだ」「アイコの好きなこの漫画をまだ読んでいないから俺はアイコをあまり好きではないのだ」
アイコを見ようとするあまり、アイコを見るのが苦痛になっている。ふとしたときアイコの声がやさしいものだったことに気付く。世界を見ること、例えばいま目前にあるこの観葉植物を眺めること、疲れたからくたばっていることが、則ちアイコを見つめることだと知った。

4月14日(月)23:43
引用を通して、自分の意図するものを間接的に見せる。

2011.10.29 15:35|未分類
2月9日(土)22:54
誰かを、何かをこんなに好きになったのは初めてのことでね。ただ、この気持ちが余りにも大きくて、ついていけないのね。持て余すって言うんだっけ?こういうの。アイコを好きだという気持ちが、ひねくれたネガティブなものから、ポジティブなものになったとき、俺はほぎゃあと産声をあげる…ような気がする。アイコアイコアイコ。

2月10日(日)0:08
「俺はドラマーだ」と唱えると、不思議と自然に笑みがこぼれる。これは事実だ。眼がはっきりしてくるしね。眼が生きてくる。あと、苦しいときに「苦しい苦しい」と思うと、笑みがこぼれる。なぜ苦しいのかわからないけど、わからないままでいいんじゃないか。よくわからないけど苦しいっていうくらいでさ。あるがまま。かくあるべしというなお虚偽たり。あるがままにある、則ち真実なり。アイコの音楽をしばらく聞いていると、楽になる。正しいことをしているという実感がある。これは大きい。アイコのインタビューなどを読んでても同じ。つまり、アイコを見なければいけないということ。アイコから目を背けてはいけないということ。

2月11日(月)16:21
ぼくの場合、ということですが、いままでに何度も感じてきたことなのですが、自分を最も感じさせる美しいものは、音楽とか文芸などの表現の中にあるのではなく、自分が生きている生活そのものの中にあると思うんです。ぼくがいままでに、「なにか大きなもの」を見たときというのは、文芸に接している時ではなく、自分の生きているふとした瞬間なんです。そのとき、自分が見たものを具体的に言えば、「人の営み」ということになるのでしょうが。

2月13日(水)16:18
しかし、ドラムを練習したあとのこの世界の色づきぶりはどうなんだろう。

2月15日(金)14:56
抑圧というのは、「かくあるべし」と、ひとつの物事に自分を持っていこうとするときに、それ以外の物事に対して起こります。ドラムに対して方向付けているときはそれ以外の行為はすべてあっせられます。そういう方向付けを持たないとき、なにもあっせられるものはありません。

2月17日(日)4:46
例えば学校に行かない、バイトをしない、ということ自体が悪いわけじゃない。その時々の環境に適応した生活をしないことが問題なのだ。

2月19日(火)2:40
アイコに関係しないものを見ていても、一切感触を伴いません。それは楽のようで、実際はそれ以上に苦しいものはありません。それも、感触を、実感を感じない曖昧な苦痛です。自分の立っている位置、向かっている方向がまったく見えなくなります。そこで、いざアイコに帰ってくると、フィジカルな実感を伴った苦痛を感じ、息が詰まり、「こうした実際の苦痛を感じないのならば、わざわざ生きている必要もないだろう」ということに思い当たるのです。ぼくの場合、このアイコに当たった時に感じる感触、それを好むと好まざるとに関わらず、ぼくはその感触と関わることなしに生きていくことは不可能なのです。その感触の中にぼくがあるのです。その感触がないとき、ぼくは見えないのです。

2月20日(水)18:20
いちばん恐怖していたもの、それはaikoの歌詞。

2月22日(金)3:31
アイコ好き。わかった?わかってないのは俺なのだ。アイコに興味ないそぶり見せたら俺を殴ってね。嘘つくなって殴ってね。アイコ好きなのにね、俺はアイコをよく見てないの。100好きなのに、たぶん5くらいしか見てないの。さっきなんかエリックドルフィーなんか見てたの。アホだよね。アイコに向かっていきます!ぜんぶアイコ。意識がアイコを離れると戻ってきた時のショックがでかすぎる。ずっとアイコ。いまはそういう時期なんだたぶん。永久に続くわけじゃないだろう。無くせ!俺はアイコに向かっていきます。

2月25日(月)2:20
夜中に窓を開けて、ひやりとする冷たさに救われる。
2011.10.28 13:45|未分類
1月20日(日)19:52
恐怖症?なにもしないこと。落ち着くこと。音楽を聴くこと。アイコの音楽を聴くこと。アイコの出ているテレビ番組を見ること。アイコのPVを見ること。アイコのライブDVDを見ること。アイコのインタビューを読むこと。アイコの声を聴くこと。アイコの写真を見ること。昼飯を食う時間。何が異常か?行動出来ていればそれでいいんじゃないか?いや、あの自然な感じ、地に足のついた感じ、自然に笑いがこみあげてくる感じ、あれを知っている。あれは、時計をずっとながめていたり、音楽「だけ」を長時間聴いていたり、まとまった時間、「なにもしていない」時間を過ごしたあとに、現れる。あれは親密で、いい感覚だ。俺はあの感覚が好きだ。→絶対がじょく。今日はなんの意味があったのだろう?と考える。無意味な一日を繰り返して消耗しているだけのように思える。けれども、毎日なにかしら発見をしていて、進歩しているような気がしないでもない。

1月26日(土)2:08
寂しさは急にやってくるのかもしれない。いままで自分の前から人が去っていくことに対して、誰かと別れることに対して、寂しい感情を抱いたことは一度もないけれど、あるとき急に、「不在」をまとめて実感するのかもしれない。それは自分が予想しているよりも大きいものかもしれない。誰かと別れたことを寂しく思えることを、喜ぶだろう。

1月27日(日)0:15
ここ最近になって、あるときふっと我に帰って、この感情を言葉にして表すとすれば、「喜び」ということになるだろう、そう思う瞬間が、たまに現れるようになった。こういう瞬間がこれから増えれば嬉しい。

1月30日(水)4:30
アイコが俺の10歳年上だという感覚はない。俺はアイコの10年前をいま、生きている。アイコはいま、俺の10年後を生きている。そういう感じがする。ただ、たまに、俺がいま生きているのはアイコの「いま」なんだ、と思い違いをする。そのときは戸惑う。

2月1日(金)3:18
音楽との接し方が改善された。音楽の聞方がわかってきた。それは、「かくあるべし」から離れたことに関係する。少しずつ、「不即不離」がわかりつつある。アイコを見ると、胸が苦しくなること。アイコに関わることが他のことよりも実体を持っているように感じられること。「感じ」から出発すること。アイコを見たときに起こる「感じ」を大切にすること。心は万境に従って転ず。アイコを見ていないときには、胸はどきどきしないし、無責任というか、切実な感じはしない。アイコを見ているときは、自分の立ち位置が明確になるような気がするし、自分に問いかけてくるような気がするし、リアルに感じられ、どきどきし、地に足が着いているように感じられる。切実に感じられる。実感を伴っている。昔、「アイコを見ることから逃げていると、どんどん現実感が無くなっていった」、と話したことがある。いまも、またその状況にあるのかもしれない。けれども、アイコを意識的に見つめることをしていない、この数週間の間に、何も得ていないかというと、そうではない。かなり多くのものを得ている。ただ、実感とか、地に足の着いた感覚は伴っていない。いままででいちばんフワフワしているかもしれない。そういう種類の不安のようなものはある。アイコを意識的に見つめようとする生活は、楽な生活ではあったと思う。「楽なもの(=自分の希望するものであると推測していたところのもの)」を求めていた時期、いちばん「楽なもの」は、「アイコのPVを見ること」だった。その次に、アイコのインタビューを読むこと。アイコの音楽を聴くこと。それらはみんなリアルで、感覚を、実感を伴ったものだった。「実感が欲しい」というのは、正直な感覚だ。確かに、実感が欲しい。アイコを見ると、実感が得られる。これは事実だ。昔、「アイコのアルバムを、通してしっかり聴く」というのをやった。確かな充実感があった。アイコのPVを見ることにしてもそうだ。アイコのライブのDVDだと、もっとかもしれない。アイコのインタビューを読むことも、リアルなものだった。これらにはみんな、「かたち」を感じることができた。昔、アイコのインタビューを読んだときに起こった感覚に対して、「ここからしか始まらないように思った」と言った。アイコのCDや、DVD、ラジオのMDが並んでいるのを見て、そこが自分の家だと感じた。自分はそこに戻ってくるのだと思った。アイコの音楽を聴いたときに感じる悲しさ、その悲しさの中に生きる喜びもある、と感じたことが何度もある。

2月3日(日)1:43
ドラム再開。なんかずっと我慢してたみたい。俺はドラムが好きなようだ。ぼうきれ振り回して練習したりしてるときがいちばん楽しいつーか、生き生きとしてるみたいだ。「なぜそれをやるのか」と訊かれると答えられないけど、それは「好きだから」の一言で返せると思う。理屈じゃないね。理屈でずっと、「やる必要性が見当たらない」とか最もらしい理由つけて考えてたけど、理屈じゃないのよね。否定して否定して、否定できないことに気付いたというかね。疑う性格だからね。「自分」ってのは作るものじゃないね。もう既にあるものだね。

2月3日(日)13:45
いままでに何度も感じてきたこと、自分は希望が強すぎる、多すぎるために、それをうまく扱えていない、扱う方法を知らないのだ。

2月4日(月)1:32
けっきょく、俺は楽器からも逃げられないし、アイコの音楽、アイコの人間からも逃げられないんだろう。希望というのは、自分でこしらえるものじゃないだろう。自分がなにを欲しがるかなんて、自分で決められることじゃないだろう。俺にとってほんとうに意味を持つ音楽はアイコ以外にない。まだ、それを受け入れられていない。認めたくない自分がいるようだ。でも認めなくてはいけない。それは簡単なことではないけれど。

2011.10.27 16:06|未分類
12月20日(木)
aikoは「愛」の歌を歌っていることは間違いないと思うのですが、恋の歌を歌うにしても、常にその前提に、「愛」があるんですね。その「愛」とは、「視線」のことである、と思います。空を見て泣くとか…世界に対する視線のことです。憧れというのかな。ブッダが死ぬ間際に、一緒に歩いていた弟子に向かって、「ごらん、世界は美しい」と言った。そのような愛のことです。ぼくは、aikoは「恋」の歌を歌っているよりも、それ以上に「愛」の歌を歌っている、と認識しています。ぼくは、aikoの、世界に対する「視線」を何よりも愛しています。

12月24日(月)21:12
本屋のバイトをすることで知ることが出来たのは、世の中には実に様々な希望がある、ということだ。何に楽しみを、喜びを見出すかは人によって違うんだということを知ることが出来た。これは大きい。そしてそれは尊い。

07年12月
aikoの音楽以上に、聴いていて、心が無事ではなくなる音楽は、他にないです。aikoの音楽を聴くと苦しくなります。そのため、aikoの音楽を聴くのが怖くなってしまいました。覚悟がいるのです。頑張って好きな曲をリピートでなん時間も聴きまくって、その曲を聴くときに起こる胸のざわつきをなくそうとしたこともあります。少しずつではありますが、aikoの音楽とも、だんだん向き合えるようになってきました。

aikoの曲、たとえば「恋人」、「青い光」、「横顔」、「星のない世界」、「えりあし」などを聴いていると、その曲たちにいじめられるようなんです。ぼくは、ただ謝るんです。何に対してかは解らないけど…。それで、そのときにぼくが思うのは、ただ、「生きたい」ということなんです。「生きていれば、こういうものを、こういう世界を見られるかもしれないんだ」と思う。その曲たちに、「君のいま見ている世界がすべてではないんだ」と言われているような気になるのです。「まだ死にたくない」と思うんです。(ユーミンの「ひこうき雲」という曲でも、昔同じような感覚を経験しました。「死にたくない」と思うんです。)

でも、現状としては、「恋人」、「青い光」、「横顔」などの、そういう生きていく上で素晴らしい部分、世界は、自分には無縁というか…そもそも、世界そのものと繋がっているような実感が、まったくなくなってしまったんです。何を見ても、しても実感がなくて、世界の色付きがなくて、匂いとか、世界の親密さがなくて…もう五年以上になるから、もともとの、世界の色付いている感じとか、親密さとか、思い出せないんです。

1月6日(日)3:29
aikoの「計算」。ヘビーな内容を「親しみやすい」形で伝えること。「女性が歌うということ」に対する意識→色気。歌で、男を欲情させる(意図的)。遠藤賢司「女は床上手な声じゃなきゃ」。

1月18日(金)0:15
内相と外相、精神と身体。笑うから楽しくなる。楽しいから、笑う。どちらが先とも言える。身体表現。身体に対する意識→精神に対する意識。ヨーガ。禅。拳法、柔術。東洋。演技。役者。鏡を使った訓練。笑う練習。踊る、体を動かすこと。

1月18日(金)17:28
ある音楽を聴いて、感じる。その音楽を聴いていない間の時間、自分は何もしていなかったんじゃないかと思う。音楽によって否定されたような気持ちになる。それじゃあ、その音楽を一日じゅう、毎日、聴いていなくては、自分は、自分の信じる価値を見失ったままただ時を過ごすだけなのではないか、と思って怖くなる。

1月19日(土)13:26
・ 物事は欲求からなされたとき、いちばん内容を伴う。
・ 努力というものは、普通、欲求と関係なしに、自分に強いて行うものだ。
・ しかし、「なにもしない」ことも、欲求から為されるものだ。
・ 「なにもしない」→想像力が開かれた状態。

2011.10.25 19:52|未分類
11月28日(水)22:55
「気」というものについて。aikoのライブと、「気」の関係性について。ぼくも、「気」に関わることを仕事にしたい。

12月1日(土)15:54
「頑張らない」。「努力しない」。逆らわないってこと。我慢しないってこと。我慢したり、目をそむけたりするのも、疲れるし、「努力」の結果なんだよね。「頑張って」、自分をつらくなる方向へ持っていっている。

12月3日(月)2:36
愛って、なんですか?愛はいつも、何にも収まらない。愛は、常にそこから脱け出そうと欲する。愛、が音楽というかたちに表されても、その愛に、音楽は、音は不相応に見える。愛は、「音楽」という居場所から脱け出そうとしているように見える。音は、絶対に愛に勝つことはない。愛は、どこにいても、その場所に不満を覚えるのだ。

ある感情、これが怖くて、この感情と対峙するのをずっと、無意識のうちに避けていたけど、この感情を離さず、放さずに、この気持ちをもとに、生きていこうと思う。この気持ちからしか出発しないように思った。

12月7日(金)1:44
aikoってさ…aikoというひとつの「本」でもあるんだよね…「aiko」という思想書であり文学書なんだよね…俺の中でそれはどんな思想書や文学書も超えているんだよね…aikoの表情、aikoの話していること、aikoのみぶり、aikoの音楽…そのそれぞれが、俺にとっては、どんな思想や芸術をも超えているんだ…だから俺は本を読まずに、aikoを見つめ続けるんだ…そこにすべてがあるから…俺の愛するもの、俺のこれから愛するだろうもの、俺の希望する世界、そういうものがすべてaikoの見ている世界の中にあるんだ…俺はaikoの「眼」になりたいんだ。

12月7日(金)8:33
表現する人に必要なもの。豊かな想像力。豊かな感性。深い悲しみ。深い喜び。大きな愛。それらを形にするための技術を得ようとする努力。

12月7日(金)10:58
人間は、なぜ自分の愛する人や、ものごとに対して臆病になるのか。愛する人のことを、自分の愛するものを、しっかりと見ないといけない。けっきょく、aikoが音楽を通して伝えようとしているのは、この一事に過ぎないんじゃないか。

12月7日(金)11:54
aikoは、aikoの音楽は、人生のいちばん多くのものを見せてくれる。

12月7日(金)12:01
えりあしを聴くと、人間は自分の愛するものにどこまでも固執しなきゃいけないんだ、と思う。そうしないと、いちばん大切なものを手放すことになる。

12月9日(日)2:49
aiko以上に、心を無事でなくす音楽は他にない。aikoの音楽は、聴くと、必ずと言っていいほど、大惨事になる。こんな音楽、他にない。

12月9日(日)23:38
aikoにしろ、アート・ペッパーにしろ、ドビュッシーにしろ、坂本龍一にしろ、マイケル・ブレッカーにしろ、激しい焦燥、ここではない、一刻も早くここから抜け出したい、しかしそれは叶うようには思われない。「足りない足りない」と言いながら、あるのは希望のみ。満たされない。aikoを知って、音楽は生易しいものではないことに気付き、音楽の数だけ人間があり、並列では決してない。カタログ的な思考。これもいいあれもいい。ふざけるな。中学生のころには気付かなかった。楽しませるために音楽やってくれてるのかと思ってた。

2011.10.25 04:02|未分類
11月5日(月)9:43
なんで一日の間にこんなにも多くの複雑な感情を経験するんだろう。でも、恋をするとこんなものじゃねえんだろうな。これは既に片想いという恋かも知れないけど。この一日の間に多くの複雑な感情を経験するという点ではaikoと共通している。一日で半年ぶんくらい経験したと感じることもある。

11月6日(火)17:29
恐ろしき抑圧。愚かしき抑圧。苦しいときはまず抑圧が強いときだ、と言っていいのかもしれない。

11月7日(水)14:35
「ひこうき雲」や、「東京日和」を愛するあなたを、いとおしく感じる。

11月11日(日)0:49
aikoが、俺にaikoの音楽を聴くことを強いる。aiko以外の音楽を聴くことを許さないんだ。頑張って他の音楽を聴こうとしても、だめだ。従うしかない。とことん付き合ってやる。一緒に死んでもらおうじゃねえか。そうだ、俺はaikoが知りたい。aikoの喜び、aikoの悲しみ、絶望。aikoの身を切るような悲しみ、俺はそれに切り裂かれることを望む。一緒に、死にたい。一緒に、死ぬ。俺は死に場所を得た。

11月11日(日)1:38
要約すると、aikoのマンコに俺のチンコを奥深くまで入れること。そうすれば、宇宙の成り立ちが理解できる。俺は死に、生まれる。

11月11日(日)2:53
aikoの視線を見る。経験はここまで視線に表れるものか、と驚く。五年前には、こんな視線は有り得なかった。切り裂かれた人の視線の強さ。その強さに、この人の胸の傷の深さを見る。美しさ、とはこの視線のようなものを言うのだろう。多くの人は、一生知らずに死んでいく。強く、美しく。その視線の映す世界、それをぼくは追う。正しい歳のとりかた。近くて、遠い。この人の悲しみを、俺も悲しむ。この人の悲しみを悲しめないなら、人生の価値など、ない。あなたは、強い。やはり、あなたを、あいしている。視線の強さを見て、悲しくなる。

11月13日(火)0:20
いま、この瞬間も、aikoはどこかで息をして、動いて、ムカついたり、驚いたり、ちゃんと存在しているんだ、と思うと、それは信じられないような気がするけれども、おそらく事実なんだ。いまも存在している。実在している。生きている。なにかに喜びも感じ、ためいきも。なにを見ているんだろう?でも、なにかを見ている。「いま、この場所で」。そう思うと、怖い。存在はどんな人間にも均等に与えられている。いま自分が存在している「この場所(世界=瞬間)」に、あの人も、あの人も存在しているのだ。呼吸をして、実在をして。残酷だ。とても残酷だ。

11月19日(月)2:35
「ひこうき雲」について話すとき、泣いていた。「同じ哀しみだ」。嬉しく思った。やはり、この人と俺は、似たような感性を持っていて、似たような経験をしてきたのかも知れない。似たような世界を見ているのかも知れない。いとおしく感じる。同じ涙を流したい。「ひこうき雲」、「東京日和」を愛するあなたと。ぼくはなぜ、aikoがこれらの作品を愛するのか、よくわかるのだ。これらの作品がこの人にとってどんな意味を持つのか、よくわかるのだ。この人がこれらの作品を通して見ているものが、よくわかるのだ。それを嬉しく感じた。

11月19日(月)2:45
「愛しみ」って、かなしみ、と読むんだね。この歳になって、はじめてそれがよくわかるようになりました。この言葉を考えた人は偉い。あの日以来、ぼくはずっと「愛しみ」のなかにいるようです。「愛しみ」以外にない。でもまだ…ぼくは彼女を愛してはいない。ぼくにはまだ、愛がわからない。
2011.10.25 03:58|未分類
10月24日(水)10:23
事実としてaiko以外の音楽を聞いていると落ち着かなく(焦りがある)、aikoを聞いていると落ち着く。地に足がついている感じがする。事実としてね。単なる事実。正しいことをしているという実感があるんだよ。
あと、aikoの「音楽」、aikoの声、aikoの「うた」、aikoのバックのドラムが好きなのも、事実。aikoのアルバムを全部「聴き尽したい」と思うのも事実。aikoの音楽を聴くとき、多少の抵抗を感じるものもあるのも、事実。しかし、それを聴いていると、楽しんでいる、ちゃんと正しい道を進んでいる自分を発見するのも事実。

10月24日(水)10:26
文字通り、aikoは俺の人生を変えたのかも知れない(いまその渦中だからなんとも言えないが)。でも間違いなく、いままで生きてきた中で俺にいちばん影響を与えた人だろう。様々な意味で。

10月24日(水)14:17
試行錯誤のない人生の存在を信じていた。そういうものだと思っていた。いろいろ考えるのは、精神的に異常なのだと思っていた。このあとなにしようかなあ、と考えるのは精神的に異常なのだと思っていた。息苦しくなるのは精神的に異常だからだと考えていた。自分が何が欲しいのかわからないのは、精神的に異常だからだと考えていた。間違った時間の使い方をして、あとで後悔するのは、精神的に異常だからだと思っていた。例えば「時間を意識しよう」とか「深呼吸しよう」とか、そういう努力をするのは病的な異常だと思っていた。

10月28日(日)16:15
自分の周囲にあるものが、自分の遭遇する事象が、すべて予言めいたものに見える。すべて、ぼくに向けられたメタファーに見える。

11月1日(木)1:32
まばたきをするとaikoのその一瞬の表情を見逃すかのようで。その表情のすべてが。この世にあなたの一億種類の表情を超える価値なんてなにもないのです。
この人よりもかわいい人はこの世に存在しない。
aikoにおっぱいがあるという事実が信じられない。おっぱいがあるという事実に苦しくなる。あんなにかわいいのに、おっぱいがあったらどうなるんだ。使うのか。
マント。時間軸を超越して愛すること。十年前のaikoは現在のaikoでもあり、現在のaikoは十年後のaikoでもある。十年前のaikoと現在のaiko、十年後のaikoが同時に存在する。

11月5日(月)2:09
aikoを見ていて思うのは、普通にサラリーマンをやっていたら、こんなにたくさんのものを見て、多くの感情を経験し、霊的に成長することは出来ないだろう、ということ。そして、ぼくもこのように、aikoのように生きていきたいし、それが出来なければ、絶対に後悔するだろう、ということ。

スピードのずれを感じる。俺の内側が求めているスピードと、俺の実際に歩いているスピードに違いがありすぎる。止まっているのと同じだ。ズレを無くせ。内側の、求めるままに。猛烈に、走れ。

11月5日(月)11:11
他者の生を肯定、希望できるようになった。これは自己の生の肯定の上に成り立つものだと思うけれども、こういう実感しか、結局は、人を救うことなど出来ないんじゃないか、と思った。この五年間で、いろんな悲しさを知った。

11月5日(月)12:38
そう。恋人っていう曲の一番の歌詞。俺にはこの人の音楽を超えるものはこれから先出会わない気がするし、この人の音楽さえあればいいと思う。というのも、この人の音楽を理解し、この人と同じようなものを感じ、この人と同じ景色を見て、同じ喜び、悲しみを共有すること、その過程が、俺にとっての生きることに他ならないと思う。aikoと同じ目で、世界を見たい。aikoに見えていて、俺に見えていないものの存在を目の当たりにすると、悲しくなる。aikoの見ている世界は余りにも生き生きとしていて、人間として生きることを考えさせられる。

2011.10.25 03:53|未分類
10月15日(月)9:36
芸術だけが逃げ道だと?佐野康夫のドラムを聴くこと、それを譜面におこし、自分でも再現できるようにすること。それだけが、自分にとってのリアルだ。一刻も早く、佐野康夫のドラムをすべて、譜面にしたい、と前々から思っているんじゃねえか。それを無理して押し潰そうとしてきたんじゃねえか。それに没頭すればいいじゃねえか。それがおまえにとってもいちばん自然なんだよ。それが不満の種なんだからよー。実際、楽譜をつくっていて、苦しくなったこと、あるか?逆に充実感を感じているだろ?自覚しないとだめだよ。抑圧しちゃあ、だめだ。

10月15日(月)18:41
「そう、君の、そうやって笑った顔が見たかったんだ」セルフ・ポートレイト。
この曲のメロディの響きはどこまでもストイックで、執拗で。攻撃的と言ってもいいくらいだ。
やっぱり、自分の知らない感情があることが許せない。

10月16日(火)14:24
なにが音楽か?音楽は、音楽であって、音楽でない。
つまりは、世界が歌っているのが聞こえるかどうかだ。ぼくは、世界が歌っているのが聞こえれば、それでいい。

10月17日(水)15:49
恐怖を消そうとすると、愛もまた、消える。絶望を否定しようとすると、希望もまた、消える。
悩みを「生かしていく」。つまり、悩みというのは成長するための契機である。人間、何かを成し遂げようとか、前進しようとするとき、簡単に行くわけがないんですよ。だから、「悩み」はマイナスのものではなく、それを乗り越えることで、確実に前進した、とわかるものなのだから、「希望」とか、「前進」とかいう言葉の対極にあるものではなく、それらと表裏一体の関係にある、と考えます。それだから、悩みの総量と希望の総量は一致していると思うのです。人生になにも求めないような人であれば、そもそも悩まないでしょう。たくさん悩み、絶望し、それだけ多くの希望を見て、喜びを感じた方が、楽しいでしょう。せっかく生まれてきたのだから。悩みがなければ、希望もまた、ないだろう。

10月19日(金)13:54
「演奏において、大切なことは?」「何もしないこと」。「しよう」とした途端、音楽的ではなくなる。
実際、CDに合わせて練習するとき、その演奏に似せようと不自然になるけど、自分なりに演奏しようとするとうまくいく。音楽として聴けるものになる。
呼吸するように演奏する。これがいちばん大事。

10月20日(土)20:17
ドラマーの役割は、呼吸の様子を打ち出すことである。バンドは、ドラマーの呼吸の中で演奏する。

10月23日(火)17:29
自殺。自分のごく一部が大半の自分を殺そうとしている行為。

10月23日(火)17:55
苦しみには二種類あって、ひとつは逃げている時の苦しみ、もうひとつは向かっている時の苦しみ。このふたつの区別がつかないことがある。向かうって俺はどこに向かうんだ?って。「自分の希望はこれだろう」と見当をつけ、自分をその行動に持って行こうとする(恐怖突入という)、これはじじょうじばくである。森田はじじょうじばくを認めているのか?恐怖突入とは、そうなんだから。事実唯真とは矛盾しないのか。ただ、事実唯真、だろう。自己を縛るのも、自然の心理。病的なものではなく、誰にでもあること。
ただ、向かっているときは、充実を感じるし、精神的にも割と楽なもので、そういう状態を探しているのは気分本位とどう違うのか。好き嫌い関係なしにやるべきをやる。やるべきをやらないで報いを受けるのは事実として受け入れなければいけない。

10月24日(水)9:40
演奏者たちは並列なんかじゃ決してない。ダイアローグ。「対」だ。「違う人間」だ。歌がこうくる。ドラムはそれにこう応える。歌に対して攻撃的、破壊的でも有り得る。こうして自然に聞けているのは当たり前のことではない。完成されてなどいない。コミュニケーションと同じく、「他人に合わせている」だけだ。腹を立てれば、音にも出す。アルバムなんてものは脆いものだと思う。
2011.10.25 00:06|未分類
9月30日(日)16:13
音楽が理解できるかというのは、音楽をどれだけ聴いたか、どれだけの時間を音楽に費やしたか、いい耳を持っているか、ということとまったく別の次元にあるんだよね。そういうことを強く感じるようになりました。そして、この事実はとても自然というか、当たり前のことなんだな、と。つまり、音楽は生活の中にあり、このふたつを切り離すことは出来ない。事実、音楽と、音楽以外の事柄を切り離すことが不可能だと感じることが多い。同一の事柄なんじゃないのか、と。そして、その感じかたは本来的というか、自然なものなんじゃないのか、と感じる。
具体的に話すと、例えば、aikoのラジオ番組を聴いていると、そこにはひとつの物語があるんです。こういうコーナーがあって、こういうコーナーがあって、と。それは、aikoのアルバムを通して聴いているのとあまり変わらない感じがするんです。「表現」されているものに共通するものを、俺はそこに見ているんでしょう。そして、共通するものが見い出せるということは、その音楽にも、ラジオにも、その「人間」が素直に現れているからだろうと思うんですね。aikoに関して言えば、その音楽を聴くことと、そのラジオを聴くこととの間に、大きな違いはない。どちらからも、同じような感覚を覚える。だから、「音楽を聴く」という表現がピンとこないことがよくあるんですよ。あえて言うならば、「人間を見ている」。音楽は、音楽という範囲を超えているなどと敢えて言う必要もなく、もともと超えているものなんだ。だから、ぼくは「音楽が好きだ」とは、あえて言わない。必ずしも音楽である必要はなかったんだから。俺に関して言えば、たまたまそれが音楽だったと言うだけで、それ以上でもそれ以下でもないのです。だから、音楽をまったく聴かない、CDなんて一枚も持っていない、という人でも、音楽を深く理解している、という人はいるでしょうね。でも、そんなことを話したってなんの意味もないんだ。音楽は、「生きること」という根幹に対する枝葉末節に過ぎないんだ。その人からたまたま漏れたうなり声が、または笑い声が、その人の音楽であり、音楽はそれを超えるものではない。俺はaikoの笑った声を聞いて、一緒に笑い、一緒に泣く。それは、aikoの音楽を聴くことと、なんらの差異はない。

9月30日(日)23:59
やっぱり永遠っていうのはない、とか。愛だろうと人間だろうと永遠ではないんだっていうことを、最近すごく感じるんですよね。桑田佳祐

10月4日(木)12:33
絶望や葛藤はaikoが原因で生じている。同時に、希望も、aikoが原因で生じている。

10月6日(土)12:54
音楽において、音を問題にしない。音を見ない。特に自分の出している音を見ないようにする。

10月6日(土)18:35
いままで「無意味な努力」というものが存在すると思っていたけれども、努力、つまり意識がひとつの物事に強く、継続的に向けられること、がどこに向けられようと、それは必ず、彼になんらかのものを教えてくれるものである。そういう風に感じるようになった。12時間、身動きせずにじっと時計を見続けること。12時間、身動きせずにじっと雲の動きを追い続けること。それが禁欲的であり、つまり「神」、「自然の意志」に背いたものであろうと、その努力は彼に何かを教えてくれるだろう。

10月6日(土)23:09
aikoが音楽を通してやっていることは、生の完全なる肯定である、と思う。そして、それはぼくのコンセプトとも一致している。
そして、それはぼくがこれからやろうとしていることでもある。

10月6日(土)23:22
セックスは小さな死であるという考え方と、生者が死を抱くこととの関係性について。

10月7日(日)4:46
自分にとって、音楽とはどんなものなのか。それを言葉で表すのは難しい。だからこそ、音楽をやるのかもしれない。音を出した方が早い。自分の音を通して、自分には音楽はこのように見えていますよ、と言う。これがぼくにとっての音楽なんですよ、と。

10月7日(日)18:52
音を聴くな。音を視ろ。それが「音楽を聴く」ということだ。
ハクチの状態で聴くということ。言語は我々をリアリティから遠ざけるのだ。
色彩に対する感覚と、音に対する感覚との間には深い関係性があるように思う。豊かな色、豊かな音。
2011.10.24 23:58|未分類
9月6日(木)3:42
午後一時起床。一時間ほど音楽を聴きながらがしゅうのびょうりを読む。CDをコピーし、図書館にCDを借りに行く。50年代のRBのセレクション、モータウンのセレクション。良い。50、60年代のドラミングを基礎に置こうと思う。それよりも佐野康夫だけど。佐野康夫の真似をしようと思う。ドラムは少しだけ練習した。道のりは長いと感じた。夜、「すべての夜」を採譜。自分の目指しているものの途方のなさを感じた。自分が思っているよりも、佐野康夫はうまい。当たり前か。でも、何十曲か佐野康夫の曲を採譜し、コピーしていくうちに、そのギャップは埋まると思う。そして、煙草は最低である。気分が悪くなるだけである。もう二度と、絶対に吸わない。

9月16日(日)23:58
さっき話していたことですけど、よく人って才能があるとかないとかを問題にするじゃないですか。けど俺には才能ってものがどんなものなのかよく分からないんですよ。そして、興味がない。ただ、なぜ自分は音楽をやるのか、やらなきゃいけないのか、という動機は、問題になるような気はするんですよ。少なくとも俺の場合は、音楽は、やめることは出来ないような気がするんですよ。なぜやめることが出来ないのか、というのを説明しようとすると、うまく言葉に出来ないんですけど、ひとつには、単純な希望として、自分が音楽を聴くことで感じることの出来た、もらうことの出来た、「本当の」喜びとか、人の生きる意味のようなもの、人の素朴な希望が(例えば、焼き鳥が食べたくなって、それを食べることとか)、いかに尊く、貴重なものであるか、とか、この喜びを、音楽を聴くことの喜びを、生きることは、やっぱりとても素晴らしいことなんだということ、街を歩いているおばさんや女の子が楽しそうにしているのを見るだけで、「そうやって、多く笑っていてほしい、泣くこともあるかもしれないけど、でもいっぱい泣いたぶん、いっぱい笑えるといいね」とか、そういう気持を、音楽で伝えたいし、一言で言えば、俺は俺が聴いてきた音楽に対して恩返しをしたいんです。俺が音楽から得た喜びを、俺の経験を濾過して、俺の音楽にして、バトンのように回していきたいんです。喜びとか、そういうものは連鎖反応というか、どんどん回していくのがいい。俺にとって、その手段として音楽以上のものは見付からなかったのです。やはり、命がけで得たものだから、他の人にも伝えたい。出来れば不特定多数の人に。それでみんなで大きな喜び、生きていく喜びを全身で感じられれば、それに勝る活動はない。

9月26日(水)14:50
認識すること、それが存在をつくる。認識しなければ、その人にとって何も存在はしない。認識することを封じ込める習慣が存在する。そこには「真の」孤独がある。

9月26日(水)14:54
「自分はこうなる」と自分を律するのではなく、そのときそのときの、自分の気の向くままに生きていくのがいいのだと思う。「なるようになる」。というか、「なるようにしかならない」んじゃないか?流れに身を任せる、というかね。

9月29日(土)16:33
音楽を聴くということ、ひいては、なにかを知覚するということは、自分自身を知ること、自分自身と対峙することでもあると思う。

9月30日(日)4:40
ぼくには、「繰り返し聴いた」ジャズのアルバムが、一枚として、ないのだ。通して聴いたアルバムとなると、ジャズに限定するとせいぜい10枚、ジャズに限定しなくとも、20枚にも満たないのではないか。しかも、その通して聴いた回数となると、それぞれ3回にも満たないのではないか。音楽は繰り返し聴かないことには、身にならない。当たり前のことだ。的をしぼり、繰り返し、繰り返し、聴くのだ。音楽はせいぜいBGMとして、パソコンなりをしているときになんとなく流しておき、聴いていた気になっていただけに過ぎない。あるいは、ドラムを研究する目的で(こっちは進歩があるぶん、少しはマシか)。「音楽を聴く」という「行為」からは、ずーっと離れていた。聴くならば聴け。その代わり、聴かないときは聴かなくともよい。しかし、音楽を「かける」以上、しっかりと聴かなければならない。
まずは、一枚。まずは一枚を聴こう。「聴くべき」アルバムが多すぎて、どれから聴いていいのかわからないのだ。でも、聴いていないアルバムがあったところで、それは恥ずべきことではない。その代わり、俺はこのアルバムを知っている。そう言えることが大事なのだ。そして、それ以外にないのだ。「俺はマイルスデイビスのカインドオブブルーしか知らない」「おまえはそれしか知らないのか。キースジャレットもオーネットコールマンも知らないのか」「それでも、俺はカインドオブブルーを深く愛している。200回以上聴いた。隅から隅まで、味わい尽している。そしてそれは、俺の血となり、肉となっている。なんか、文句あるか」。自分の人生である。他人の人生を生きるのではないのだ。他の誰の人生でもない。「自分はこうだ」、「確かにこういう部分は自分にはないが、こういう部分を持っていることに対しては自信を持っている」、という風に言えることは、大切なことだ。他人の人生を生きるのではないのだ。他人がどう言おうと関係ないのだ。あれがない?いいじゃないか。俺にはこれがあるんだから。俺には俺の人生があるんだよ。
俺は本当に音楽を知らなかったんだなあ。「持っているCDの数は驚くほど少ないけど、その代わり、それぞれのCDの中身を隅から隅まで覚えている。そのドラマを全部、ね」。「持っているCDの数は驚くほど多いけど、実際に聴いたCDの数は驚くほど少ない。買ったあと、聴かないまま存在すら忘れられるものが殆んどなんだ。CDを買うことで、聴いた気になっている。実際に音楽なんて、判るとか以前に、聴いてすらいないんだよね。聴いた気になっているだけ。実際は集めているだけ。無意味」。全部捨てようか?まずは、「これはしっかり聴いた」というアルバムを、一枚、また一枚と、少しずつ増やして行こう。焦る必要はまったくない。何枚聴いたかじゃない。どれだけ深く聴いたかだ。一枚しか持っていない、聴いていないとしても、それを本当に深く聴いているなら、胸を張れるはずだ。聴いていないものはあって当たり前。そういうことは問題ではなくて、「じゃあ、あなたは何を聴いたのか」。これが大事。いまの俺は、この問いに答えられない。「聴いた」と答えられるアルバムが、一枚もないからだ。だから、まずは一枚でいい。いや、まずもなにも、ずっと一枚でもいい。それをちゃんと聴いているのならば。
例えば、「俺はaikoと、マイルスデイビスのカインドオブブルーしか知らない。何か文句あるか」と言えること。「その代わり、aikoの曲はすべて、歌詞から曲のいちばん深いところ、演奏まで、すべて知り尽している」。これこそが大事なのだ。
2011.10.24 16:29|未分類
8月15日(水)0:35
音楽を「かけて」はいるけど、それを「聴く」のは怖いから、「かけた」らすぐに本などを読み出したりして、音楽を「聴か」ないで済む方向に自分を常に持っていっていたんですよ。外で歩きながらなんて時はもっと楽。音楽「聴か」なくても、いろんな情報があるからね。

「ガサガサとした音響」というのは、嫌でも耳に入ってくる「音楽」を無意識的なレベルで排斥しつづけることから産まれるものなのだろう、とぼくは考えているんですけど。まあ、気分のいいものではないし、磨耗しますよ。

音楽を「聴く」と、「なにをどう聞けばいいんだ。どう聴くのが本来的なんだ、音楽的なんだ」と、例えばドラムを聴くとき、「そんな聴き方は音楽的じゃない」とか、常に自責のようなうるさい声が聞こえてくるから、「音楽を聴く」という行為自体、自分によってハードルがあげられちゃってて、「これから音楽を聴く」と考えるだけで緊張したり胃が痙攣してビクンビクン言っちゃって吐気がしたりしていたんですよ。そういうのがあって、まあ逃げてたわけなんですけど。自分を無理矢理納得させるから逃げていることさえ自覚していなかったりするんですけど。タチが悪い。フロントを聴くのが一番「音楽的」なのは薄々分かっていたはずなのに、それを無意識的に否定し続け、音楽自体、怖いものになってしまったんですね。まあ、以上は俺自身による分析に過ぎないので、事実とは異なるんでしょうが。

しばらくは矯正しますよ。吐きながらでも音楽を聴いていればそのうち変わってくるのは分かっているので。今のところさしたる変化はないが、胃の痙攣が(たぶん)なくなったのはありがたい。

8月17日(金)10:44
精神と境遇の関係。精神を操作すること。境遇を操作すること。いままで、両方をひっくるめて「作為」と呼んでいた。例えば、関心を外に向けようとすることは、境遇を選ぶことである。「認識」しようと、「見」ようと、テレビの音声を聞き取ろうとすることは、境遇を選ぶことである。精神は境遇によって変化する。「万境に従って変ず」。精神と境遇の関係を、もっと認識すべきである。「境遇をさえ選べば良いのである」。
すべては認識である(この世に存在するのは認識のみである)。いかに生きるかはいかなる認識をするかに過ぎない。「思いを寄せる」ということ。よく「心の中で生き続けている」と言う。当然だ。存在は想像による産物に過ぎない。在ると思えば在る。たとえ、物理的に或るものが目の前に存在しても、認識しなければ、存在しないのと同じなのである。そこに孤独がある。空を飛べない人は不幸である。

ぼくにとって音楽のみがリアルである。音楽を聞いているときだけは多少のリアリティを感じることが出来る。そして、音楽はぼくの内からあまりにも簡単に逃げていく。ぼくの内に音楽が宿っている瞬間はあまりにも少ない。

8月20日(月)15:57
自分の理解を深めるための対話。相手は誰でもいい。人間である必要すらないのかもしれない。

8月20日(月)17:22
つらい経験だけじゃ、音楽はつくれないと思うんだ。これから、たくさん楽しい経験をして、そこで音楽がつくれるんだと思う。

8月28日(火)18:57
時計の秒針を何十分もじっと見ていると、いま、この瞬間にとりあえず名前がつけられていることに安心するんだ。俺は世界から外れていない、ちゃんと時間に寄り添って生きている、と感じることが出来る。地に足が着いているのを感じることが出来る。その内容がどうであれ、「自分の」人生を、地に足を着けて生きている、という実感があり、虚しさはなく、むしろ充実感があります。根本的な喜びとも言えるものも感じた。要は、いま、この瞬間を「見て」いるか、と言うことです。

8月30日(木)12:45
あの頃はまず音楽があったのです。そして音楽が人々の生きかたにまで影響を与えていました。

8月31日(金)15:00
そこで目的とするのは建設的な行動ではなく、その人に合った自然で固有の行動、つまり「生きること」である。怖いときには怖い、逃げたいときにはやはり逃げてよいと思う。そのような弱い自分をそのまま認めていくように成長し、こころの器を大きくするのが本当の強さであり、それが森田療法による治療の目標であると思う。

9月4日(火)13:49
日記。朝起きたときに気分がよかったのは本当に久し振りである。朗らかな気分だった。三時間しか寝ておらず、下痢をしており、からだもギシギシ言っていたにも関わらず、気分はとても清々しかった。連続性、と言うものがあるだけでこれだけ違うのか、と思った。目的の持続性の話である。昨日と繋がっていると感じられた。いつもは、起きるとまたゼロから築きあげないといけない、という感じなのだけど。やはり、なんだかんだ言ったって、気分がいいのは、嬉しいことである。
煙草を吸うと、心臓がばくばくする。口の中が臭くなる。喉が少し痛くなる。頭がくらくらする。うまくはない。しかし、なんでかすいよせられてしまうのだ。髪の毛や服に臭いがつくのもいい気分ではない。手も震える。
音楽を聴く。なかなかいい気分だった。面白いのもあればつまらないのもある。面白いのはいいことだろう。
戦略的森田療法について少し勉強する。実のあることをしているという実感があった。それはさっき音楽を聴いているときにもあったのだが。
昼飯はやはり、胸がどきどきして、吐きそうになる。サンドイッチ。うまくない。食べたくない。母との会話も面倒。疲れるだけ。さっさと片付け、自室に戻る。食ったあとも吐きそうな気分。胸がどきどきする。午前中はこんなことはなかったのに。こんなときに、戸惑ってしまう。「間違ったことをしたのか」と思ってしまう。大変困惑する。
北西憲二の森田療法の本に、治療の明確な目標(不安の読み替え作業6つ)が書いてある。なにも見えない状況に、これに従えばいいという指示が与えられるのは、少し楽になることではある。ぼくは医者の言うことを信じようとしない、頑固な人間のようである。
2011.10.24 15:16|未分類
6月8日(金)0:15
6月4日(月)、レポートを出しに行き、ブックオフ、ほうりんどうで漫画を買い、ドイツ語を少しやり、ドラムを少しやり、バイトに行き、漫画を読んだ。これからは毎日鏡を5分でも見る習慣をつけようと思う。何事も努力だ。努力で解決できないことはない(と思う)。努力して出来ることを、やらないのは、馬鹿げたことだ。自分の人生を無駄にしてる。

6月15日(金)17:29
「私」に徹底し、「私」を探求することで私の外部とつながろうという意図である。

(シュルレアリストは)徹底的に内を見ることによって、外界と通ずる回路を結ぼうとしているのかもしれない。 横尾忠則
完全なる飼育
ホルストヤンセン

7月13日(金)12:17
人々が笑っているのを見ると涙が出ることがある。「もっと、あなたにいいことが、あれ」。素直にそう思った。驚いた。こんなにもエゴイストである、自分が。

7月15日(日)15:58
ドビュッシー。アラベスク第一番。彼の(演奏者の、と言うべきか)内面の葛藤、こころのざわつきなどが溢れだしている。彼はなにかを強く求めている。そこではない場所へ、行こうと、もがいている。彼はそこに行くことが出来たのだろうか。多分、叶わなかったのだろう。聴いている方は、所詮、他人事である。この音楽を聴いていると、全身を締め付けられ、縛り上げられるような、痛みを覚える。哀しすぎる。ここまで強い、希望の表現が、あるか。そしてそれは叶わないのだ。とにかく、聴いていて痛みを感じる、身体を痛めつけられるような音楽であると思う。そして、幾らか救われたような心持ちになる。しかし、作曲者本人は?

7月30日(月)21:23
真っ暗な、なにも見えない中で、美しいものを感じたり、音楽を聴いて、こころが溶かされるような経験をしても、それはそれで貴重で、価値のあることなのだろうけど、それは苦しみの中での感動でしかなく、まだ生きているという実感というのはまったくなく、なにも見えないのにはまったく変わりはなくて、一瞬でも本心から笑うことに比べたら、生きていくための力、にはなりにくい。さっき、一瞬だけど、本心から笑った。ほんとうに久し振りのことだ。数年ぶりか。世界との境界がなくなったような気がした。世界が鮮やかに見えた。世界が親しげに見えた。生きているという実感を感じた。やはり、自分は生きているという実感を感じて生きていたい。それに対しては嘘はつけない。生きているという実感がないのは、世界と分離している感じがしている中で、毎日を過ごすのはあまりにも辛すぎる。

8月6日(月)12:39
アンヘドニア、「楽しい」ということに無関心になれたのは、意味のあることだった。私たちは、何かの目的を成し遂げるときには、必ず苦痛を我慢し、ただ楽しい方向にぼんやり進んでいくのではなく、自分に対して何かを強いなければならないからである。

8月10日(金)19:23
よくあるアドバイス、「ニュアンスをつけて演奏しましょう」。アホか。意図的なものじゃないだろう。

音楽を聞いていると怖くなる。人間が生々しく見えすぎるから。音楽って誰の眼にもこう映っているのかな?演奏者の呼吸、表情、見える。複数人の人間の気迫が、それぞれの人間の人生に対する思いが、音楽の場に集まっていて、怖い。気が集まりすぎている。彼らは、生きている。俺は?

音楽を前に、ただ、頭を下げたい。それだけです。ほんとうに、それだけです。

8月10日(金)21:31
先日テレビを見ていて、浜ちゃんが出ている番組で、ペンギンの飼育員の人か出ていて、この仕事をしていて得られる喜びというのは、出産の瞬間に立ち会えることなんですね、と言っていた。「出産」という言葉を口にするとき、少し躊躇っていて、少し震えながら「出産」という言葉を言っていて、眼は涙眼になっているように見えた。ほんとうに大切に思っているんだということがよく解った。それを言葉にすることで、あごが震え、涙が出るほど大切に思っているものがある、こういう人を美しい人というんだと思った。
2011.10.23 19:50|未分類
4月17日(火)16:05
種々の生活の骨折り。
服装、髪型など、身なりの清潔さ、アルバイト、最低限の勉強、音楽を聞くこと、楽器を練習すること、話しかたの改善(もぞもぞしゃべらない。はっきりとしゃべる)、自分の行動に責任を持つ(約束を守る、金を借りない、など)

4月20日(金)7:50
ただ、在る

5月11日(金)12:33
みんなそれぞれに生きているんだなと思った。みんなそれぞれにまんこがあるんだなと。最近になって女の子を見掛けてはその子がどんなまんこをしているかを想像する習慣が出来た。そういう習慣はぼくを少なからず元気にする。しかし、中にはこの子にまんこが付いている筈がないって子がいる。しかし、現実はそんなに甘くない。どんな女の子にもまんこはしっかり付いている。まんこは君を離さない。かわいい女の子で、そのまんこがめちゃくちゃ臭ければ、興奮するでしょう。美的なものには、強烈な醜いものを持っていないと、来ない。かわいい女の子を見掛けるたびにこう思う、「あなたのまんこに埋もれたい」。

5月16日(水)15:27
ただ単にやりたくないだけか。なら事実服従でやらなくともよい。恐怖症か。なら恐怖突入するべき。ただ不快な心の事実なら、それを曲げずにやるべきことをやればいい。いまの問題は音楽を聞く気が起きないことについて、単なる心の事実なのか、恐怖なのか、どちらにしたって事実を曲げずにやるべきことをやればいいだけで。音楽を聞かないことで困ることがあるのなら聞けばいいし、特に困ることがないのなら聞く必要は全くない。今はっきりしているのは、やらないで困ることは、ドラムを練習すること。これ一つだけの気がする。個人練習に入るための金が必要。あと卒業するための単位が必要。あとは別になくて困るものはない。何よりもドラム。何に対してずっと困ってるかって、ドラムの実力に対してだからね。

5月26日(土)23:39
今までいかに音楽、というものを侮辱していたか、馬鹿にしていたかということが最近になってわかってきた。音楽ってのは自分が考えていたのとは根本的に違うものなんだということが分かりかけてきた。それでは音楽とはどういうものなのか?と問われると、これは言葉にするのは難しい。ただ、こういう風に言えるかも知れない。音楽は、ぼくが思っていたよりも素晴らしいもので、世界とか人生に於いて本質的なものだということ。そこには人間が在るから。それぞれの人間の普段感じていること、喜びとか悲しみとかが、そこに投射されているから。人間自身が投射されているから。このことに今回、言葉ではなく経験として気付いたとき、涙が出てきた。

音楽は、大きな、ものだ。

5月27日(日)10:51
竹中直人監督による、「東京日和」という映画を観ました。写真家の荒木経惟、陽子夫妻が題材になっています。映画には詳しくないですが、これほど繊細で、壊れやすく、美しい(ものを写し取った)映画は観たことがありませんでした。漠然とした印象しか書けないですが。

心に「残る」って言うんじゃない。これを観て、心にこの映画の写し取っているものが「産まれた」と言った方がいいかな。これから、生きていくうちに、この映画の写し取っていたものがぼくのなかで育っていくのだろうと思います。いや、育てていかねばなりません。ぼくは「東京日和」という映画を観た。では、ぼくはどう生きるか。この映画を観た以上、この映画の中で写し取られているもの無しに、これから先、生きていくことは出来なくなった。じゃあその「写し取られているもの」ってなんなんだよ、って言われそうですが、言葉にするのが難しいのです。一言で言うと「愛すること」ってなるんだろうけど。それも相手に見返りを要求しない愛と言ったらいいのか。言葉にしようとするとどんどん嘘っぽくなるな。観れば解る。

この映画のサウンドトラックのCDは以前からよく聴いていて、一番好きな音楽のひとつです。大貫妙子作曲によるものです。音楽からも人間のやさしさ、暖かさ、苦しみ、孤独が溢れていて、それを聴いて空を見上げていたりして、涙が溢れてきたり(笑)、なんとか生きてみようという気になったり、まあぼくにとっては少し特別な音楽なのです。

いい映画でした。

6月4日(月)12:49
今日は昨日までとは明らかに空の様子が違う。雲が大きい。雲に奥行きがある。いろんな雲がある。賑やかだ。こんな空のもとにある私たちの街を見ていると、この街が空のなかに、雲のさなかに浮かんでいるんじゃなかろうか、と思えてくる。「この指先、まさに指先から、空ははじまっているんだよ」。

初夏、ですか。信じられない早さで時は過ぎ行くけれど、竹内まりやの新作の「デニム」、それに入っている「人生の扉」という曲、気に入りました。

6月7日(木)19:35
鈴木大拙 禅とはなにか
思考は現実化する
日本美術の歴史
佐藤和紗
全力で生きるってこと
2011.10.23 16:54|未分類
12月22日(金)3:12
僕は今大学生で、21才です。高校生の頃、受験勉強をしすぎて、神経症というこころの病気にかかってしまいました。大学にはなんとか受かることが出来ましたが、それ以来ずっと、今に至るまで闘病生活みたいなものを送っています。もう4年以上になります。普段はものや人に対して愛着だとか、好意を感じることがありません。周りの人の中に僕を好いていてくれている人もいるのかも知れません。けれども、実感として感じられないんです。ワクワクしたり浮き浮きした気持ちになることはまずありません。そこにあるのは孤独感のみです。普通の病気なら、苦しいながらも楽しいと思う瞬間もあると思うんです。けれど、こういうこころの病気は、楽しいと思う瞬間が一瞬としてないんです。絶望的に、何にも興味が持てず、常に異常に緊張していて、と言うのが、起きている間じゅうずっと続いているんです。こころの休まる瞬間なんて一瞬もないんです。しかし、ごくたまに、世界が親密に感じられることがあります。荒井由実のひこうき雲を聴いて泣くことが多かったです。僕は人生に希望を持っている。けれど、何故かなにも楽しいことがない。好きになれない。人を、ものを愛したい。けれども、常に自分とそれらの間に膜があるようで、心が全く動かない。そんな状況で、ひこうき雲を聴くと、何故か涙が流れるんです。僕は思うんです。「死んじゃいけない。愛したい。」aikoの音楽を聴いて同じ風になることもありました。「生きることって、こんなに素晴らしいんだ。愛することって、こんなに素晴らしいんだ」そこで僕は死にたくない、と思うんです。aikoの生き方というか、人間性にも凄い憧れてて。僕もこういう風に生きたい、と思っていて。aikoの歌とか、aikoがいるってことが、僕を生きることに繋ぎ止めていてくれていたと思うんです。今でもそうですけれど。今になって、やっと良い方向に向かい始めている感じがします。aikoみたいに、いっぱい泣いて、いっぱい笑って、周りの人を幸せに出来たらな、って思います。泣く方はもう充分してきたのでもうしばらくはいらないですけど。たくさん笑えたらな、って思います。

12月31日(日)1:16
aikoを見ていると、この人は愛に満ちているんだ、と思う。人間を救えるものがあるとすれば、愛しかないと思う。aikoは強いというか、大きく見えるというか、人間らしいというか。人間はこういうものだ、なんて。尊敬と言うんじゃないですね。そんなかしこまったものじゃない。ただ、「好き」。大好き。涙が出るくらいに。

1月1日(月)22:15
立派である必要なんかない。勉強だって別に出来なくたっていい。ただ、今日という日を、楽しく生きてほしい。楽しく生きる、努力をしてほしい。楽しいとか、嬉しいとか、面白いとか、幸せだとか、そういう気持ちを大切にしてほしい。

1月3日(水)4:46
どんなものでも、aikoが指を一本触れるだけで、かわいいものに見えてしまう。魔法使いみたいだなー、って。
aikoを見てるとこっちまで笑顔になってしまう。

1月3日(水)4:47
aikoみたいに、浮き浮きしたり、喜んだり楽しかったり幸せな気持ちになったり、そういう気持ちをみんなと共有出来なかったら生きている意味なんかないじゃないかとさえ思う。これがぼくの一番望むものだから。

1月31日(水)0:22
音楽ってのは誰かの心に伝わって初めて完成する。Aiko

3月4日(日)14:15
のどかだった。ニーナシモンを聞きながら歩いていた。道路の隅のゲロでさえ、のどかにみえた。匂いもあった。街の匂いだ。親を追う子供の姿があった。この上もなく美しいと思った。その情景が。なるほど、情景とはただの物理的なものではなく、心が投影されたものなんだな。自らに心がなければ、情景ではなく、ただものがある、というだけにとどまってしまう。

電車を待っているとき、自分は遠くへ旅行に来ているような気がした。毎日のように利用している駅なのに。そこが江ノ島とか、沖縄であるような気がした。空気の感じが。時の止まったような空気の感じが。懐かしい感覚だった。そして、電車がやってきた。ゴーって音と共にやってきたのだけれど、そのゴーって音が意味を持った音のように響いた。「空虚ではない」ということになるのだろうか。言葉にするのは難しいけれども。
数年ぶりの感覚。
音楽と世界が融和しているようだった。いつもは分離して聞こえていたのに。自分も世界に溶けこめばいいのだけど。

4月7日(土)9:25
例えば、桜の中をしっくする黄色い鉄道。青い空の下、路地を話しながら歩く二人組の女の子。いい天気の日に青空の下の桜をデジタルカメラに収めようとする若い恋人たち。こういう美しいものを見ると、この世の中に美しくないものはあるのだろうかと思ってしまう。美とは一体なんなんだろうと。
2011.10.23 16:46|未分類
2月10日(金)22:57
音楽を聴いていて面白くない(それが自分の好みの音楽でない)、理解できないことを症状のせいにしてたんですね。音楽を聴いていておもしろくなかったり、それが好みの音楽じゃなかったり、理解できない音楽だったりするのは、誰にでもある普通のことなのにね。どういうきっかけでこう言う強迫観念(どんな音楽も楽しめなければならない、と言う強迫観念。これがあるために、音楽を聴いていて、それが面白くない、理解できない、という事実を認められなくなっていたんですよ。あるがままの反対ですね)がうまれたのかはもう思い出せないですけど。
また、その時々の気分によって音楽が面白く感じられたり、感じられなかったりする(また、その気分も自分の意思通りになるものではない)。これは極自然なことなんですよ。自然なことなのに、『いつでも音楽は楽しまれなければならない』とか言う強迫観念のために、ことをややこしくしているんです。

2月19日(日)21:15
生きていてよかった。実際の経験からそう思ったのはかなり久し振りのことだ。

7月17日(月)0:59
れいじさんと言う人と音楽関係で知り合った。この人は明るく外交的な人で、俺と正反対の様な人で(普段こう言う人と接する機会はゼロに等しいのだけれど)、こう言う人と接するのは難しく、疲れる。逃げ出したくなる。でもこう言う人と付き合うのが面白くなれば最高でしょう。
しかし、まだ、この人が面白いことを話していても、覚めた目で「だから何?」って思ってしまう。勿論顔には出さないですけど。だから苦痛なんです。面白くもないことを面白く感じている振りをしていなきゃいけないから。たぶん、以前の俺だったら笑ってるだろうなーって思うんですよ。
それで、こう言う人は他人のことをよく考えてる、と言うか他人に対する気配りがいい。俺なんか、全然面白くない人間だろうに、なんでそんな俺にやさしくしてくれるの?って思ってしまう。
やっぱり、他の人のことを考えないで生きるのは苦痛だ。自分のことしか考えないで生きるのは苦痛だ。れいじさんを見習わないといけない。他人の立場に立ってものを考える。大切なことだ。

8月5日(日)22:11
文芸ジャンキーは、「人生の目的は感動を求めることだ」と言ったね。俺は反対だ。音楽を聴く。感動する。そこからどうするか?自分の人生を進めるんだよ。感動するってことはインプットなんだな。なんらかの形でのアウトプットがなくっちゃいけない。インとアウトだ。それは人間と人間との関係だ。結局そこにしか人生の価値などない、と俺は思う。芯からそう思う。

9月2日(土)23:36
なぜ俺がaikoが好きかって。生きることの素晴らしさ、人を愛することの素晴らしさが伝わって来るからなんだよ。ここに最も美しいものがある。そう思う。全力で生きている人にしか感じられないものをaikoは歌っている。俺は彼女を心から尊敬する。aikoみたいになりたい。なりたいと言うよりも、生きたい。全力で生きている人の姿だ。

11月5日(月)1:49
aikoの音楽は実際、物凄く高度なのね。音楽を通して、物凄く高度なことをやってる。俺にはaikoがどんなことをやっているのか、見えていない。見なきゃいけない。aikoのことなんにも知らねえじゃねえか。そんなんで「愛してる」なんて言えるわけがない。ただ、俺は世界でいちばん、aikoの音楽を愛すだろうと思う。早く、aikoと同じ地平に立ちたい。aikoが何故音楽をやっているのか、aikoの音楽はなんなのか、知りたい。

11月10日(金)1:03
テレビで見たんだけど、とあるラジオ局が移転する時の話。移転する前、最後のリクエスト曲が流された。carole kingの"you've got a friend"。ラジオ局のその場にいた人たちはどういう想いでその曲を聴いていたか。そのラジオを聴いていた視聴者はどのような想いでその曲を聴いていたか。みんなが同じものを感じていたんじゃないか。

先日、その曲の、アルバム "in concert"に入っているバージョンを聴いてみた。スタジオ盤よりも、キャロル・キングの歌には切実なものが感じられた。この歌を聴かされて何も感じない訳ないじゃないか。途中で客もみんなで一緒に歌い始める。最後の方はキャロルキングは歌うのをやめて、完全に客に歌わせていた。
you just call out my name
and you know wherever i am
i'll come running to see you again
winter,spring,summer,or fall
all you have to do is call
and i'll be there
you've got a friend

俺はその場で歌っていた客たちの気持ちがよく分かる気がする。ひとつの音楽によって、みんなが何かひとつのものを共有するのって、素敵なことだと思います。
2011.10.23 03:07|未分類
10月4日(火)15:50
自分が創られていくのを感じた。
拘束が在ればこその自由
外で生活している限り、常に変化があるし、なにが起こるか分からない。逆に言えば、内で生活しているうちは、外的な変化もないし、なにが起こるかもすべて分かりきっているんだね。そもそもこの様な状況を生きていると言えるのだろうか?生活と呼べるのだろうか?答えは勿論、否、ですね。

10月6日(木)0:30
夜中にネットで好きなアイドルなんかの画像を探し回って印刷したりしている間は、絶望とは無縁だ。行動のなかに入り込んでいるからね。これを生活全体に拡げられればいい訳だ。

10月22日(土)14:35
好きなものごとに吸い寄せられる感じ、そうだ、好きなものごとは我々を吸い寄せるのだ。

10月25日(火)15:42
この子とセックスが出来たらどんなに素晴らしいだろう。そう思えることはとても重要なことだ。本当に好きかどうかを分ける、有効な指標の一つだろう。

10月28日(金)18:29
色々かわいい人は見てきた。その人たちはみんな人間には見える。けど、高島さんは俺には人間には見えないんだよ。天使かなにかだって言えばいいのかな、こういう場合。完璧すぎるんだよ。いつまでも見ていたいって思う。飽きることはないだろうね。どこがいいって、まず目がずば抜けていい。

10月28日(金)21:06
生きることへの絶望なくして
生きることへの愛はない
カミュ
愛するということは自分の愛する相手の生を生きることである
トルストイ
疲れた人はしばし道端の草に腰を下ろして道行く人を眺めるがよい
人は決して遠くへは行くまい
ツルゲーネフ

1月16日(月)6:05
高校が舞台になっている。次は体育の授業。同じクラスの石原とみっちーと三人ではなしている。石原とみっちーは接点がないと思っていたのだが舞台美術関係の部活で一緒だったらしい。だから三人で一緒に話してた。『じゃ、××くん、後で実習みに行くね』とみっちーが言った。実習とはギターの実技試験だ。とは言っても俺の場合はギターと言うだけで、みんなそれぞれ得意なものを披露する。いつの間にか会話にオズボーンが加わっている。『俺が好きなのはトライアンフだ』と。そう言って会話から外れてしまった。オズボーンとは長い間喧嘩していて、会話を交すのは随分久しぶりだ。これで仲直りできたのかも知れない。間も無くみっちーと石原の二人も、先に体育に行っているという。俺は一人で教室に残った。今日の体育はなんだったっけ。ああそうだ、先週からプールをやってるんだ。俺は水着とかを持って廊下に飛び出した。プールがあるのは四階。俺は階段を上る。プールにつく。誰もいない。そういえば雨が結構強く降っている。俺はそうか、今日はプールじゃないんだ、雨だから教室で授業なんだと思い直して道を引き返した。授業が始まったのは十時半。今は十時四十分。まだ大した遅刻ではない。一階に降りて、校舎の外に出た。すると、そこに女の子がひとり立っている。俺が近付くと女の子は、俺に好きなんですと言う。俺は困った。『でもまだ二回か三回くらいしか話してないじゃない。』そう、殆んど面識のない子だったのだ。周りには下條とか、四人くらいいる。下條は俺の実習をみに行くとか言っている。俺たちは二人きりになるためにその四人を離れた。俺たちは抱き合っている。思いきり抱き締める。ちょっと顔を遠ざけて、女の子の顔をしっかりと見る。一重まぶたの子だ。俺の一個下の二年生らしい。強いてあげるならば木崎ちゃんに似ていないでもない。俺は女の子を抱き締め、どうやって断ろうか考えている。俺には他に好きな人がいるのだ。しかし、長く抱き締めている間に、女の子は俺の答えをしってしまったようだ。気付くとずっと下を向いている。顔をあげた。ケンタッキーフライドチキンだ。間違いない。彼女はケンタッキーフライドチキンだ。泣きながら、俺の手首の動脈を噛み切ろうとしている。くちばしで、俺の手首の動脈を噛み切ろうとしている。手首から掴みとろうとしたが、確りと喰らい付いているのでなかなか離れない。誰かに助けてほしかったが、もう四人の姿は見えない。
2011.10.23 02:49|未分類
3月3日(木)1:47
恋の素晴らしさに、人を愛することの素晴らしさに少しでも触れたときに、絶望していたときのことが嘘のように思えるんです。ぼくは深く愛したい。これに勝ることはないと思うんです。結局ぼくは人が好きなんです。人を愛せなくなったとき、人間は絶望するんです。愛されることよりも、愛することの方が大切です。

6月9日(木)0:00
夏の夜に、窓を開けて、遠くから聞こえてくる、この、電車の音、好き。なんか、情緒があるじゃないか。

7月31日(日)10:26
かわいいその子が留学生として俺のクラスにやってきた(俺は高校生と言う設定だ)わけだけど、話しかけたりして、メアドも聞いたんだろう。あとで、彼女は風呂に入った。俺は彼女の裸が見たくて、風呂の引き戸をガラガラと引いた。彼女はいた。俺をみてもどこも隠そうとはしない。俺は彼女のおっぱいだとか、裸をよく見た。俺は上半身は裸だったが下半身はジーンズを穿いていた。彼女のふとももに頬擦りをした。彼女のおっぱいにしゃぶりついた。乳首を思いきり吸いまくった。彼女は入れてもいいと言ったらしかった。ジーンズを脱ごうとした。『ごはんよー』ここで母親の声。気付けば夜の十二時近くになっている。両親も起きていた。携帯を見てみると、新着メールが六件くらいある。見てみると、すべて彼女からだった。『話しかけてくれて、嬉しかった』などと書かれている。俺は居間で親父たちがいるそばでそのメールたちを読んでいた。そして、デザートの果汁らしきものをすすった。メールはこう続く。『(あなたは)わたしの友達だったタカシ(仮名)に似ている』気付けば、手元にテナーサックスがある。俺は軽く吹いてみる。親父が言う。『どうだ、楽しいだろう』『そりゃ楽しいに決まってるよ。サックスは俺が一番やりたい楽器なんだから。けどまだサックスを本格的に始めるわけにはいかないんだ。ギターも本気で楽しめないのに、サックスを本気で楽しめるわけがない』親父は『わからない』と言った。

8月8日(月)20:41
久々に本を読んで感動しました。面白い、と感じました。女生徒という作品です。体のどこかがあつくなりました。

8月31日(水)12:51
女の子は自転車に乗っている。俺も自転車に乗っている。俺は女の子に『このあとどうするの?』と訊いた。俺はこう尋ねるのが恥ずかしかった。これは、俺の産まれて始めてのデートの誘いの言葉なのだ。なんて答えたのかは覚えていないが、俺は同じく自転車に乗っている父兄二人に『じゃあぼくらは先に行ってますんで。』 と告げた。女の子の、さっきの質問の答えは、これから新所沢に行く、と言うことだった。もちろん、電車で、だ。そうか、新所沢ではいま古本祭りをやっている。俺は金を数えた。電車賃も考えると、自由なお金は500円くらいか。文庫本しか買えないな。

9月3日(土)0:03
有り得ないかわいさだ。死んじゃうよ、おれ。なんなんだ?この表情は?天使だ天使だ。人間とは思えないくらいかわいいな。かわいいを超えてる。こんなにかわいい人間がこの世に存在していていいのか?人間てのはこんなにもかわいいものなのか?俺は自分が人間に産まれたことを喜ぶよ。少なくとも、この1000年で、世界で最もかわいいのはあいこだろう。俺は同じ日本人に産まれたことを、同じ時代に産まれたことを心から喜ぶよ。
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