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2011.11.08 12:01|未分類
2月5日(木)4:04
寝る時の絶望をどうすれば抑えられるか。早く寝ればいい。

2月5日(木)4:40
充実だなんて言葉を聞くと反吐が出る。俺は働いている時は充実なんてものはまったく感じていない。感触を伴わずに時間が過ぎ、疲労していくだけだ。忙しく働いているはずなのに、時間が過ぎるのが嫌に遅い。自分が何かをなしているという感触はまったく感じられない。空っぽにしか感じられない。酷く疲労する。現実感がない。俺は間違ったことをしているんだろう。「働きたい」と思って働き始めた訳ではなかった。
頭ででっち上げた理論に自分を従わせていくと、自分の「自然な感じ」を感じられる瞬間がなくなってくる。すると更に理論に傾く。流れが出来る。流れが出来れば、止まることは困難になる。一生、自分の「自然な感じ」を感じることなく、頭で作られた「流れ」の中で過ごしていくことになる。
正直に言えば、求めていることは「働かない」ことだと素直に言える。働かなくても、困らない。
求めていないことを続けていると、自分が求めているものを感じることが出来なくなる。

2月5日(木)4:42
「働くか、働かないか」を「現実的な問題として」考えること。つまり、「働かない」という選択肢から出発する。

2月5日(木)4:45
現実感というものが価値のあるものだったのかすら解らない。忘れてしまった。

2月5日(木)4:55
「自然な感じ」が感じられないまま時を過ごすのは凄く危険なことなんじゃないのか。
学校に行きたいと思ったから学校に行ったわけだ。その上で「働きたい」という気持ちも出てきた訳だ。このまま過ごせば、学校に行くことに挫折することもあるかも知れない。「確信が持てない」というやつだ。確信というのは「自然の感じ」から起こる。

2月5日(木)4:58
働くことは怖いことではあった。面接を受けた直後の気分は悪くはなかった…か。しかし、あの種の疲労は感じたことがなかった。あゆみブックスの時にも感じたことがなかった。

2月5日(木)5:01
世界の匂いとかね。あったことすら忘れていた。

2月5日(木)5:06
例えば、俺が働くのをやめる。学校へ行くのをやめる。つまりすべての「繋がり」をなくす。そうすると、初めて世界との繋がりを感じられた。学校へ行ったり働いていたりしていて過ごしていた間には世界との繋がりどころか一切の感触を失って生きていたのに。

2月5日(木)5:21
確かに言えることは、いまの俺には、創造性はまったくない、ということだ。創造を第一に考えるのなら、働くのをやめるべきだ。
創造している時というのは、一瞬一瞬生きている間にずっと創造しているんだ。正確には、自分の中で世界が作られていく様子を一秒ごとに感じることが出来るんだ。世界が豊かに感じられるんだ。そして笑いが起こるんだ。楽なんだ。世界が美しく感じられるんだ。俺はおそらく、そういう生活を最も望んでいたはずなんだ。

2月11日(水)3:00
すぐ、理論にしてしまう。脱理論。原因の探求をやめること…?

「音楽が聞こえるようになるのを求めていたのだ」とか、「人間を感じられること、生き生きとしたものを感じられることを求めていたのだ」とか、本当にそうか?そんなことがわかるのか?それはあとづけの推測ではないか?ただたんに、「その状況」を求めている、それだけではないか?

2月11日(水)20:23
心残は残してはいけない。あとでもっと酷い形でそれに直面することになる。
「それは起こるべきことだったのです。起こるべきことなら、早く起こった方がいい」ねじまき鳥

確かに言えるのは、「あるがまま」になりやすい状況と、そうでない状況とがあるということだ。

2月11日(水)21:36
「間違っている。おまえがこれまで生きがいとし、今でもそれによって生きているもの―それは全部、おまえの目から生と死を隠す嘘であり、まやかしだ」―トルストイ「イワン・イリイチの死」

俺はそれがまやかしであることを既に知っている。生と死が隠されていない状況というのを知っているからだ。だから、「まやかしの生活」を強いられた時、俺の知っている、また同時に人生の最も大きな価値である、「生と死が隠されていない状況」というのと、現在自分の置かれている「まやかしの生活」とを耐えず比較せざるをえなかった。俺は、「あの」生活を正しいものだと強く確信しているから、そのまやかしの生活をしていた時の心的な反発も苛烈だったのだ。人間の生活は経験律によってなりたっているからな。

2月12日(木)3:46
うん、間違いない。離人症状を治すことを目的にするのはまったくの無意味だ。

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2011.11.06 13:56|未分類
1月28日(水)14:41
あなたのことが愛しいと思うよりも、この世界を「同じように」美しいと感じているあなたのことが愛しいのだ。
ぼくは世界を愛しているのだ。ぼくがあなたのことを愛しているとするのなら、それは飽くまで世界への愛を通してのことだ。
しかしぼくが音楽を聞いて泣く時も、音楽に対して泣いているのではなく、世界に対して泣いているのだ。

1月28日(水)16:18
一つ一つの曲が聴き手の記憶と馴れ合って世界を作り出してゆく。
人は記憶で出来ている。
コミュニケーションというのは両者の記憶を通して行われる。
音楽は人に伝わって初めて完成する。
あらゆる認識というのは既に記憶なのだ。

1月28日(水)11:58
濃い緑に鮮やかなオレンジ

1月29日(木)11:48
贅沢の仕方

1月29日(木)12:21
美しいというのは何が美しいというわけじゃないんだよなあ。ただ「美しい」と感じるだけで。何に対してかはわからん。

1月30日(金)3:11
自分の体が広がっていくような豊かさ。これは理屈ではなく、正しいものであると感じられる(これを感じるには多くのまとまった時間が必要だ)。半年間何をやっていたんだろう?何も見えない中で「旨いもの」を食ったりしても意味がないと思う。何も見えない中で個人練習に行ったりしてもね。
単位というのはそこまでして取る必要のあるものなのか?今回取れた単位は6単位くらいだろう。6単位を取ること以外に俺は何をしたんだ?
今回働き始めたのも理論によるものだ。今のところその理論は正しいとは思えない。実感として。
そう、現実感のなさ。仕事を再び始めようと思って、電話した直後も現実感がまったくなくて、働き始めてからも現実感がまったくなかった。
6月に学校から離脱したのは現実感を求めてのことだった。
一方で、9月の芳林堂。しかし、肌寒さ。豊かではなかっただろう。
自分が正しいと思えることをやっていきたい。誰だってそうだろ?それを離れている時間が余りにも長かった。半年だ。
「無感覚だ」という自覚もなくなっていた。比較でしかものを見れないから、その「無感覚」の中にもいろいろあるわけ。だから、そんなもんだと思ってたわけ。本を読んで一応は内容は理解出来るからね。でも、そんなもんではなかったんじゃないかっていま思い出しかけているんだな。
7月に仕事を始めたことでそれから今にいたるまで何が変わってしまったかというと、「離人症状が悪化した」というのがいちばん分かりやすい表現かもしれない。(すなわち、同時に人生の目標とか憧れとかもすべて失われているわけだ)。素直に「何かがしたい」というのが一切なくなったんだからな。
何が「努力」だ?俺はこの半年間、努力なんて何もしてないぞ?努力の方向性をずっと失っているんだからな。楽器の練習だって当てずっぽうでやってるだけだからな。「俺はこれがやりたいんじゃないか?」ってね。

1月30日(金)23:43
アイコのまぶたの黒を、鼻の下の柔らかさを、アイコにちゅーをする。ずっとちゅーをしているうちにちんこがむくむくと膨らんでくる。ちゅーをしながらオナニーをする。アイコのまぶたの黒の顔料の脂の熱を、アイコの鼻の下の感触を感じながら、アイコにひたすらちゅーを続け、オナニーをする。

1月30日(金)23:33
アイコの唇をむすんだ時の鼻の下が好き。

1月31日(土)21:48
真剣になって遊びをするとそれは絶対に下品にならない 赤塚不二夫

1月31日(土)23:42
自分でも何を書いているのかなんて判ってないんだよ。けど、自分が嘘を書いていないことだけは判っている。それが大事なんじゃないの。

2月1日(日)4:11
お互いの匂い立つ肉をむさぼりあいたい。毛は濃ければ濃いほど興奮する。ちくびも焦げ茶色で存在感があった方がいい。毛の匂いの中に顔を埋めたい。

2月1日(日)22:40
絶望に慣れることは絶望そのものよりも更に悪いのである カミュ「ぺスト」

2月2日(月)2:05
俺だってそうだ。自分の生活を相当にコントロールしている。部屋に置いていいものも決まっている。部屋に置いてはいけないものを置いている場合、それは外来者であるということを認識した上でそこに置いているのであって、常にそれを排除することが出来るようにする。つまり、中立であるということ。いつでもそこに戻って来れるようにしておくこと。脅威は、この中立をかき混ぜようとする外部の者である。

2月2日(月)2:34
絶望なのかすらわからない。希望はあるのだと思う。とても強い希望が。いや、「あった」のかな…いまあるのはその希望の名残でしかないのかも知れない。不自然に歪められてしまったのはわかる。

2月3日(火)14:53
好きという気持ちはなんの現実的な力も持たない。それをもどかしく感じる。
無力。何をすればいい?

2月4日(水)3:30
ひと段落しようがするまいが寝る時間が来れば寝なければならない(四時に寝て、七時間睡眠で八時に起きるのは不可能だ)。八時に起きたくて、七時間寝たいのなら、一時までに寝なくてはならない。四時に寝れば、十一時まで寝てしまうだろう。
2011.11.06 13:50|未分類
1月4日(日)19:52
競馬の小沢桃子ちゃん
さんまのからくり
競馬学校の合否の通知を開けるのが怖くて泣き出す
合格と知ってまた声を上げて泣き出す
三浦春馬に会う
泣き出す
テレビに出ている人を見て、「この人が好きだ」と思ったことはいままでに殆んど一度もなかった
蛇足:知らないものに対する希望?好きだということ。頭ででっちあげた「希望」ではなしに。

1月14日(水)0:11
寿司 うに ミニアチュールの記憶→キーホルダー 東急ハンズ?玉子の寿司のキーホルダー

1月14日(水)17:39
ただ単純な寝不足だけではなく、抑圧が体を疲れさせているのも事実だ。「休んで」いる間はずっと疲れっぱなしということもあるだろう。

1月15日(木)22:09
嘘を重ねていくことで真実を浮かび上がらせる。つまりそれは小説ってやつだろう。一個一個を取り出してみれば、それぞれが矛盾している。
現実は、「わからなさ」として受け入れるしかない。

1月16日(金)0:30
学校とかバイトとかがあると、「何もしない」でいることが難しくなる。「何もしない」というところから出発する習慣を再び身に付けるために、学校やバイトを放棄していたとも言えるかも知れない。「何もしない」ことを怖れ、それを避けようとする傾向にある。しかし、その時に自分が求めてもいないことをするくらいなら、何もしない方がずっといいのだ。そのことを十分に理解できていない。そのことを十分に理解するために学校やバイトを放棄したとも言える。「義務でするという考えのあるうちはいつまでたっても苦しい感じは消えないが、自然の感じから出発する場合、容易に愉快になるのである」

1月16日(金)1:29
七月に働き始めたことの具体的な報復は十月に学校へ行くのを辞めたことだ。そのせいで、語学の授業を全部切ることになった。自分自身の「納得」という「自己満足にしか過ぎない」問題が、具体的な形をとって現れるのだ。
つまり、七月に働き始めたことそのものが俺の人生を狂わせたのではなく、その働き始めたことにより、十月に学校へ行くのを辞めたことが、俺の人生を狂わせたとも言える。いや、七月から九月の三ヶ月間を無駄に費やしたのも事実だ。すべて事実だ。俺の心の中の問題ではない。七月に働き始めたことで、俺は七月から九月までの三ヶ月間を無駄に費やし、十月に学校へ行くのを辞め、語学の授業を全部切るはめになり、更に一度学校へ行くのを辞めたものの、このまま後期はまったく出ずにいると学費の問題で即退学になるというので、正しくないと思いながらも学校へ復帰し、「学校へ行かない」という自分の意志も無視せざるを得なかった。俺は後期に何をしたんだろう?俺が後期にしたことは、「七月に働き始めた」というそのことの尻拭い以外にない。簡単に言えば、「七月に働き始めた」ということだけのために、それからの半年間をまったくの無駄に費やしたのだ。

1月16日(金)1:34
それがどんなものであろうと、俺は「正しいこと」に戻ってくるべきなのではないか。それが遅くなると手遅れになる。

1月16日(金)12:43
自発性 見えている

1月17日(土)22:05
青い光はアルバムの最後の曲のように思える。いや、何が始まりで何が終わりなのかはわからない。このアルバムの中には始まりも終わりもないように思う。ずっと続いて行くものだと思う。このアルバムを、この曲を聴いて思うことは、「死にたい」ということであり、「生きたい」ということである。

1月18日(日)23:58
感覚が最も大事だと思うんだよね。そして感覚は健康によって左右される。というのも、世界がどうあるのかが重要なのではなく、世界がどう見えるのかが重要だと思うからなんだよね。みんな自分に見えてる世界を「世界」と思い込んでいるだけなんだから。その見え方は、感覚によって左右する。更に、感覚は健康状態によって左右する。「健康状態」は「かたち」とも言い替えられる。感覚は、かたちによって左右される。つまり、正座をすれば気持ちもかしこまる。木の上に登れば緊張する。畳の上に横臥していれば精神は弛緩する。

改めてここで確認しておきたい。俺は「感覚」というものを最も大事なものだと思っている。心の底からそう思う。

1月22日(木)9:47
その時ぼくが数ヶ月振りに楽器を始め、なんとか上達しようと頑張っている過程は、そのまま生きることのメタファーだった。

1月23日(金)14:09
ブッブー、ダメです。名前が決まらないので自動的に「こうちゃ」になりました。こうちゃ、朝ですよ、おきなーさい。
かおるくん

1月25日(日)2:06
人間を感じられること→aikoを(人間として)感じられること

1月25日(日)18:06
意味と無意味を峻別する意味があるのだろうか

1月26日(月)14:13
不在というものが存在を際立たせるのだ。

1月26日(月)17:21
何故自分は歌謡曲に引き寄せられるのか。非現実よりも現実を求める傾向。

1月26日(月)18:25
ダイエー クレープ 清水さん めちゃくちゃかわいい

1月28日(水)11:31
佐野康夫以上に演奏に葛藤を感じられるドラマーはいない。佐野康夫は、演奏中にその瞬間瞬間に「どの音を出すべきか」と常に葛藤している。次の瞬間にどの音を出すのかは本人にも判っていない。その状況の中で、最善の選択をしようというわけである。佐野の演奏を聞けば、頭がめまぐるしく回転しているのがよく判る。それでいて、出来上がった演奏を聞いてみるとこれ以上は望むべくもない演奏になっている。つまり、演奏が悩んでいることの喩え(メタファー)になっているのだ(生きることを「悩む過程」と定義してみれば、佐野康夫の演奏は生きることのメタファーとも言える)。

2011.11.06 13:41|未分類
11月24日(月)20:47
印を見付けるのは、視覚によって直接ではなく、頭の中、想像の中で、である。本棚は頭の中にある。
本を読むことも、頭の中の本棚の組かえ作業と言うことが出来る。

11月26日(水)1:39
俺の一年以上前に書いた文章に空回りした印象があるのは、「自分の人生」というものに自覚的ではなかったからではないか。その頃の自分には、「自分を動かすもの」の存在を感じることはなかった。実感というものが不足していた。だから理想を強調することしかしない。軽いんだよな。言葉が軽い。だから、七月に仕事を始めることになったこと、あの時自分の納得の行くまで「自分を動かすもの」の存在を引きずり出すことが出来れば、人間としてももう少しましになれたというか、進歩っていうの?出来たんじゃないかとも思うんだよね…それに自覚的ではなかった以前の自分の書いてたこととか、軽すぎて「肉体」から離れすぎていて青臭すぎて見てらんないもん。ガキが太宰とか芥川とか読んで、自分がそれを「理解」出来るからって自分が人生までも知ってると思い込んでるのと同じだよ。何を読んでいようが、「自分の」人生を生きていないやつの言葉は軽くて、現実味がないんだよ。一言で言って「あまちゃん」な印象なんだよ。

11月29日(土)12:34
音楽を聴く時、曲名や分数なんて見ないですよ。「いま」どんな音が鳴っているのか、それがどういう方向に向かっていくのかしか見ていないですよ。「いま」というこの瞬間には、名前なんて与えられていないですよ。

11月29日(土)17:01
意識の自立性
意識が自然に方向を持つのか、それとも方向を与えられるのか
ボンヤリ
緊張
方向を与えずとも意識は既に常にある方向を持っている
つまり、何が意識の方向性に対して影響力を持つのかに対する理解が欠けている。外相内相。自由になるもの、ならないもの。精神は自由にならないからこれに対して責任を持つ必要はない。しかし、行動は自由になるからこれに対しては責任を持たなければならない。

11月30日(日)19:31
ある物事に帰って来た時、自分の手放していたものの大きさに直面し、体で受けとめることで悲しくなることがある。悲しくもあり、世界、自分の希望の肯定でもある。自分にはこんな希望があったのだということに気付き、それを手放していたことを悲しく思い、再び世界に対して希望を感じられたことを嬉しく思う。

11月30日(日)19:41
一日のうちで失っている時間の方が多いのだ。いろんな寄り道をしたあとで、ある物事に帰って来た時、自分の手放していたものの大きさを体で経験することになる。

12月1日(月)21:27
バイトしてないと大学いく必要性も見えなくなってくる。相互ほかん的なもの。全体として。いろんな自分の希望が「覆い隠された」状態。間違った状態。そんな状態にどこまで耐えることが出来るのか?

12月3日(水)14:14
世界の方が自分に歩み寄って来るように仕向ける。

12月14日(日)18:26
音楽を聴く時、その動機になっているものは、投薬による治療のようなものであるように思われる。情のようなものはなく、ただ単に火傷した手を冷やすのに氷を用いるように、そうする必要があるからそうしているだけだ。しかし、音楽を聴いていることは「投薬」と言うよりは「復讐」と言った方が正しい。

12月20日(土)3:07
そして、俺が「人間」というものに価値を置くのは、「人間」というものを感じることの出来ない時間を長く過ごして来たからだ。離人感というやつだ。だから、不自然なところがなくなり、人間を感じることが出来た時に感激するわけだ。でも、人間を感じることなんてのは当たり前のことで、有難いことでもなんでもないんだな。俺が生きることに困難を感じているのは、人間を感じることが出来ないからだと言うことも出来るだろうな。これは相当に辛いことだからね。

12月21日(日)13:46
俺がいろいろ何かを買うのを言いつけられた時に面倒という以外の抵抗を覚えるのは、自分のやりたいこともやっていないからだろう。自分の中で優先順位の高いことをやることもできないのに(しないのに)、自分の利害には関係のないことに時間を取られることに抵抗を覚えるのは当然のことだろう。

12月25日(木)15:26
学校にも仕事にも行っていなかった、あの自分が何にも繋がれていない、流れのない、緊張のない、前も後ろもない、何も見えない、永久に落下していくような無重力の、あの環境がずっと気掛かりでいるのは、あの環境が、確かに楽しくもないし豊かでもないし、現実感もないけれども、自分にとって大切なものとそうでないものを自覚するのに適した環境だったからだ。あの環境がずっと気掛かりでいるのは、あの環境が豊かで楽しくて生産的であったからではない。自分の求めているものの輪郭をはっきりさせたかったのだ。「外の」生活をしているとそれは不可能だったのだ。
2011.11.06 13:36|未分類
11月17日(月)11:38
自分が正しいことをしているのだという実感をずいぶんと長いこと離れているせいか、自分が間違ったことをしている(手応えを感じない、虚しく感じる)ことに気付くことも出来なくなっているようだ。頭に従わされているようだ。

試験勉強をしていても、「これをしていてなんになるんだ?」と、感じとしてそれが何に繋がるのかが判らない。だから、頭で自分に「お前はこれを必要としているんだ」と信じこませなければいけない。何も見えない感じがする。人生を生きているというよりも、理論を生きているような気がする。こう言うと大袈裟に思われるかもしれないけど、戦争を思い起こさせる。上の方の偉い人が、頭ででっち上げた理論に、多くの人々が従わせられる。人々は、一人一人の「固有の生」を生きることなく、偉い人の考えた理論を生きることになる。

俺は個人的に、戦争はそれが多くの人間をただ単に「殺した」ことについて許せないのではなく、多くの人間の「固有の生」に干渉、それを途絶えさせた(流れを止めた)ことについて許せないのだ。

俺は、個人の生とは、個人の意志とは関係のないところにあると考えている(「感じている」と言った方が正確か)。人は、その自分の意志とは関係のないところにある自分の「固有の生」に従い、生きていかなければならないと思っている。それを見つめようとする努力を怠ってはならないと思う。理論に従って生きているうちに、いざそれを見ようとしても見えなくなっているんじゃないか。戦争が、個人の「固有の生」を覆い隠し、その人の人生を取り返しのつかないものにするのなら、実際に殺していなくても、それは殺人と同じようなものではないか。

こういう意味での「戦争」は日常のいたるところにある。

11月17日(月)11:47
試験勉強をしないことでどうなるわけ?卒業出来なくなる?卒業できないとどうなるの?いまいちぴんと来ない。実感が不足している。だからやる気がない。

いま学校行ってるけどさあ、直感的に学校行かない方が正しいと思うもん。ちからわざは好きじゃないよ。

11月17日(月)12:03
ある時期にはね、「自分が正しいことをしている」という感覚を感じることもあったんだよ。「壊していくべきものを壊している」というような前に進んでいる手応えをね。そういう感覚がどういう感覚なのか忘れてしまった。

11月17日(月)18:49
自分の気分の変化の原因を常につきとめようとしている部分はあるかも知れない。だから中立的な環境を保とうと努めている。何かにコミットする。コミットすることで自分の感覚がどのように変化するのかを確かめる。だから一気に新しいことをやるのは絶対に避ける。ひとつのことに充分にコミット出来ていないのに、他の物事に手を出すと、結局どちらの意味もよくわからないまま終わるだろ?部屋に新しいものを一気にどんどん置いていくと自分の場所からどんどん遠ざかっていくような恐怖を覚える。だからまだ全然、新しいものに手を出すような段階にはないんだよ。

11月20日(木)10:40
いろんな種類の希望・痛みがある。バイトをしないことの痛み、音楽を聞かないことの痛み、学校を卒業できないことの痛み、楽器がまともに演奏できないことの痛み。

11月20日(木)11:32
俺が最も逃げていたのは語学の授業なんじゃないか、という仮説がある。ドイツ語や英語の授業が終ったあとは、世界がとても色付いて見えたことが多くあったように思う。

11月20日(木)12:33
バイトをくびになった時にまず最初に思ったのは「次のバイト探さなきゃ」。誤魔化しているんじゃないのか?無理して我慢してるんじゃないのか?

11月21日(金)17:03
伏線が機能する
バイトも学校も行っていない時は、大きな不安がやってきた時、それをどうするかということしか考えていなかったように思う。不安を避けることしか考えていなかったように思う。

11月21日(金)17:31
誰かの演奏を真似をするという際、その人のフレーズをそのまま練習するというのはあまり効率的ではない。それよりも、楽器に向かった以上、ゼロから音が出てくるのに委せるべきであり、基本的には楽器に向かっている時は何も考えないで演奏出来なければならない。演奏は、向こうからやってくるのに委せなければならない。一人でやっている時と、二人や複数人でやる時と、演奏の内容が変わってくるのは当たり前のことだ。演奏は、音楽は、その時の自分の身体の状況、精神の状況、または外部の環境によって左右されなければ偽物だろう。

一人で自然に委せて楽器に向かっている時に、たまたま自分の好きな奏者のフレーズなりが出てきたとしたら、それは影響を受けたということだろう。

演奏というのは、いろんなものによって影響を受ける。その時の体調、客の中にかわいい子がいた、中学生の時に聴いていた音楽、等々。自分でも把握しきれない、無数のものによって。

演奏をする時に重要なのは、そうした無数の影響をすべて、そのまま演奏に反映させるようにすることじゃないか。「こういう演奏をしよう」とかいうような考えは、そういう無数の影響が音に出るのを邪魔しているように思う。いかにそれを邪魔しないかが重要なんだと思う。

2011.11.05 21:54|未分類
9月13日(土)23:05
別に何が問題というわけでもない…「何がしたいのかわからない」と感じたこともあったけど、週5日で八時から五時までの九時間働いてるわけで…「してる」んだよな。じゃあ何のために?金の為以外に何もない。金の為に働いている。しかし、何かをする、何かを考える為のまとまった時間はない。これが正確な記述。何をしたいとか、強いモチベーションはない。感覚が鈍磨しているから思考優位にならざるを得ない。ただ金の為に働いている。しかし金に対するモチベーションもそれほど強くはない。食事の喜びはない。

9月19日(金)18:04
人間の生き方に於いて論理が必要とされる状況、論理が通用するように思われる状況というのは異常であると言わなければならない。

9月20日(土)23:34
事実の蓄積。それが出来る環境がないと言葉に傾く。事実唯真から遠ざかる。

9月27日(土)21:29
人を好きになるのはね、その人に対して見返りなんて求めてないよ。求めていないと言うより、それ以上に、その自分の中のその人を好きだという気持ちに基づいて動けるか、生きていられるか、ということにしか興味はないよね。「勝手に好きになってる」だけだからね。

10月4日(土)0:26
Want to ということが判らない。

10月6日(月)19:18
いつも、いまこの瞬間に何をしたいのか、判らない。かといって、ふんぞりかえって何もしないでいるのも怖ろしいから(というのも、時間が過ぎて仕事や学校の時間がやって来るのがおそろしいのだ。常に背中に何かが迫っているように感じる)、色々探す。あれも違う、これも違う。こうして一日の多くの時間が過ぎていく。

音楽を聴いて何かを感じるかどうかを重大に考えているようだ。それを体調以外の環境によって変化するものと考えているようだ(モデル化、理論化)。

「いま」に焦点を合わせることが出来ていない。

事実唯真という、事実を受け入れる姿勢を無くしている。

げそうないそうの関係を理解できていない。

10月18日(土)17:35
「環境論」で行くと、多くの情報が必要になってくる。三日とか四日じゃ何も判りっこない。いまは…三ヶ月前の「続き」をやっているのか?三ヶ月前に戻れるのか?戻る必要があるのか?三ヶ月前の何を目的としているんだ?実感か?実感あったか?あのじりじりと焼くような落ちつかなさか?胸のあたたかさ?そんなものあったか?でも、働き始めたときの危機感は確かにあった。

10月21日(火)3:16
「aikoの音楽を感じること」、それ以外に君の求めるものはないのか?一日のうちに一瞬でもそれを感じることが出来ればその日は成功だと言うのか?どこに行けるんだ?

10月22日(水)4:28
エゴというものが相対化されないままに~。自分の心の動きを客観的に観察する習慣。

10月27日(月)0:01
外の世界について。学校に通うこと、それでひとつの「外の世界」は得られる。向こうから与えてくれる。ただ、「学校へ行く」ということは自分で選んでいるのだ。そこは恣意的だ。「学校へ通うことで、そこで見ることの出来るもの」、これは非恣意的だ(非恣意的とは、自分の思い通りにならないことをいう。非恣意的なものを「外の世界」という)。そこで、外の世界はどこにあるのか。例えば、本を読もうとする。「本を読もうとすること」自体は恣意的だ。けれども、その本の中で出会う情報は非恣意的(「外の世界」)だ。テレビを見ようとする。それ自体は恣意的だ。けれども、そのテレビを見ることで得られる情報は非恣意的だ。家でただごろごろしていようとする。これ自体は恣意的だ。しかし、ごろごろしていることで何が頭に浮かんで来るか、ごろごろしながら窓から見た景色が自分にどう映るか、これは非恣意的だ。つまり、非恣意的なもの、「外の世界」というようなものはどこにでもあるということだ。どこにいたって自分の思い通りにはならない。もっと言ってしまえば、上に書いたような「本を読もうと思うこと」だとか「テレビを
見ようと思うこと」だって精神の自然な反応だ。厳密に言えば、恣意的なものなど、どこにもない。精神の働きはすべて自分の自由にはならない。精神の働き自体が「外の世界」なのだ。今日はだるい。「外の世界」だ。今日は天丼が食いたい。「外の世界」だ。「外の世界」の働き、つまり精神の自然な働きを阻害するものは理性に他ならない。

俺はいま学校へ行っていて、学校へ行っていない時よりも精神が活動しているのだけど、それは家の外に出ているからではなくて、ただ単純に自分の望んでいることをしているからだね。もし、俺が学校に行くことを、学校を卒業することを望んでいなければ、学校へ行かなくたって、精神は活動するのだと思う。

10月28日(火)21:03
星物語の終わった後に、青い光を続けて聴く。青い光がアルバムの一番最後の曲であると思う。三国駅が始まる頃には、もう青い光が聞こえている。青い光はアルバムの一番最後の曲であり、一番最初の曲であると思う。だからぼくはこのアルバムを何度も続けて聴く。

10月30日(木)12:45
他力というか、無理をしないということが大事なのね。働くことを始めた時、他力ではない、無理をしているという意識が強くあったから、抵抗を覚えたんだと思う。

11月2日(日)1:18
神経症の人で、自分が神経症であることに気が付かないでいる人も多い。けれども、神経症であるかそうでないかを認識するのは第三者である医者の役目であって、当人にとって自分が神経症であろうとなかろうと、自分のやるべきことというのは変わらないんですね。それはつまり「生きること」です。

11月15日(土)3:13
音楽が「見える」とか「見えない」とか、「聞こえる」とか「聞こえない」とかそういう言葉を使ってきたけど、それは正確な言葉の使い方ではない。音楽の中にも「人間」はある。当たり前だ。漫画だろうかテレビだろうが、生身の人間だろうが、歩いていて聞こえてくる電車や車などの生活音など、至るところに「人間」はある。俺は「音楽が聞こえない」ことを殊更問題にしていたようだけれど、それは問題の把握の仕方を間違っていたのであって、正確には「人間」を感じられないということだった。そして、俺は「人間」を「音楽」と呼んでいたようだった。でもそれは違う。「人間」と「音楽」はイコールではない。
2011.11.05 21:22|未分類
7月20日(日)23:45
去年の九月ごろの文章を読んでいると、自分を誤魔化しているような、自分の都合のいいように解釈しようとしているような、表面だけをとりつくおうとしているような、軽薄なものを感じて苛々する。

間違いなく言えることは、俺はアイコと出会うことで人間として少なからずまともになっている。アイコに出会う前よりかは軽薄ではなくなっている。アイコに出会う前の文章を読むと、人間としての軽薄ぶりに怖ろしくなる。アイコに出逢えてよかった。

特に楽に生きたいとか思わないしね。楽に楽しく生きられたとしても、今の自分が一年前のあの軽薄なままだとしたら意味がないし。意味がないというか、もともと求めていないんだからね。自分の求める方向に向かっているつもりだし、いまのところは少しは向かえていると思う。

確かにつらかったかもしれないが、学校もバイトもしていないあの12月から4月までの間に、大きな変化があったのは事実だ。自分の求めているものが明確になってきたんだろう。痛みと共に。痛みがなければわからない。そして、なぜその間に自分に変化があったのかというと、自分の納得できないことに手を出さなかったからだと思うのだ。苦しくても、自分の置かれているその状況を納得行くまで見ようとしていたからだと思うのだ。苦しいことは問題じゃない。苦しさから抜け出したところで自分の求めていたものの姿がなくなったら意味がない。楽しく生きたいとはまったく思わない。幸せに生きたいとも思わない。

無理やりにやっても失うだけだろう。痛くても、自分の納得できるようにやるべきだ。痛みがなければ。バイトしないこと、金がないことでの痛みを「充分に」引き受けること。そこに意味があったのだ。充分に引き受ける前に、逃げ出してしまうと、見につかないまま終わってしまい、もう二度とそれを手にする機会はなくなってしまう。でも、事実として、俺は金がないことでの痛みを充分に引き受けることなく、途中で中途半端に離脱してしまった。間違ったことだ。学校もバイトもない生活を、納得の行くまで続けるべきだった。そして、そこから何が得られるのかを自分の目で確かめるべきだった。でも、もう二度とそれも叶わない。楽しいとか苦しいとかは問題じゃないんだよ。アイコにもこういう経験があるのか?苦しいけれども、納得の行く前にそこから抜け出すと何も得られないままに終わってしまう。そしてもう二度とそれを見ることは出来ない。けれども、そこから途中で離脱してしまい、自分がそこで何を見たであろうか、を知ることもなく終わってしまう、そういう後悔を、アイコも経験したことがあるのだろうか?

7月21日(月)20:28
半年振りのこの感覚、悲しさを感じられることが嬉しい。でも悲しい(笑)。悲しさ「しか」ないような気がする。言葉が出てこない。悲しい、その先が…この悲しさを見届けてやろう。なんか救いがないみたいだ。それでも嬉しいのは、人生が続いていくからだろう。この悲しさがなかった時、この痛みを感じられなかった間は、自分の人生は止まっていたし、これから先動き出すのかも分からなかった。けれど、いま再びあの痛さ、悲しさを感じて、「そうだ、俺の人生はここにあった」と思ったんです。もう放したくない。ずっとこの痛さを、悲しさを感じながら生きていたい。自分の人生はそこにしか感じられないから。自分の人生を生きたい。

それで、この悲しさというのは、おそらく「知ることが出来ないこと」が悲しいんだと思うんだよね。多分、人に関することだと思う。この人の見ているようには、俺には世界が見えていないじゃないか。俺の知らないものについて、この人は涙を流しているじゃないか。この人と同じ悲しみを悲しめないことが、悲しい。俺の悲しさじゃなくて、この人の悲しさが余りにも深い、と感じて、この人と同じように涙を流せない自分が悲しい、のかな。この人は泣いている。けれども、俺はそばで見ているだけ。それが悲しいの。抱き締めたくても抱き締められないんだよね。でもこの悲しさは何故か自分の中で熱を持っている。この悲しさを感じている間は、自分の中が温かい。それが嬉しい。

7月22日(火)17:34
なぜ怖いのか。それは、それを知らなくても順調に生きて行けそうな気がするから。だから、それを知らないで死ぬことが怖いし、 それって悲しいよなあって。知らないで過ごすなんて、物凄く簡単なんだと思う。それを知らなくたって、これからずっとすごく楽しく幸せに生きていけるのかもしれないし。だから余計に悲しいの。本当にさあ、凄く順調に生きていけそうな気がするんだよ、それを知らなくても(笑)。それが本当に悲しい。だからこそ、俺は尚更これを手放したくない。

7月25日(金)20:58
基本的に食事中には視覚と聴覚を遮断します。テレビを見ながら、或いは音楽を聞きながら食事をするというのがぼくには出来ません。「いま自分が食べていること」に集中しないと、何もしていないのと同じことだからです。だからまず、食べ物の外観を納得の行くまで眺めます。そこでいろんな想像をします。なぜそれがそこにあるのか、俺がいまこれを食べるというのはどういう意味があるのか、そういうことを可能な限り、納得の行くまで想像します。それから匂いをかぎます。そこでやっとそれを食べます。味だけを見ます。いま、そこには自分と、その食べ物の味、厳密に言うと「食べていること」、それしか存在しません。こういう風に食事をしないと、誤魔化しているように感じられるのです。ぼくが何よりも怖れていることは、想像を遮断して、その瞬間にしかなかったものを永久に手放すことなのです。だから、可能な限りの想像を尽して過ごしていたい、というかそうしないと怖いのです。

ぼくは想像の中の世界にしか興味はない、というか結局のところ、人間と人間は、人間と世界は、想像を通してしか繋がれないということを、強く感じているのです。

7月26日(土)17:48
aikoの音楽を聞いているときに、自分のaikoへの愛のようなものを感じることはありません。妙な話なんですが、aiko以外の音楽を聞いて楽しくなっているときに、aikoが愛しくなることがある。「aikoを見ていない」時に、aikoがもっと身近に感じられる(だいたい、「その人間を見る」ってどういうことですか?)。サザンを聴いている時に、何故かaikoがすぐそばにいるように感じられて、aikoと一緒になって喜んでいるように感じられるんです。そんな時、嬉しくなって涙を流すんですけど。

アイコと一緒になって笑っているような気がするというか…ぼくはたぶん、笑いたいだけなんですよ(笑)。

7月31日(木)12:56
「いや、きっと忘れることができる」
生きている間に何を見ることができる?どれだけのものが記憶にとどまる?…ぼくがその人のことを見ていなくても、そのことに関係なしにその人は常に生き続けている―その人のことを見たところで、ぼくは本当にその人を見ているのだろうか?その人の何を見ているのだろう?こうしている間にも、この瞬間にしかなかったものは姿を失って、ぼくの記憶からも消える。なんとか見ることが出来ても、いずれ忘れていく。

8月1日(金)19:25
俺がaikoを見ているのは、最終的にaikoを否定するためであると思う。何故、俺がaikoと関わらなければならなかったのかを振り返るために、aikoを見ようとしているように思う。

8月2日(土)15:41
「楽しい」というのは、「好き」というのはどういうことだったか。この、どろぼうを聴いている時の感覚が「楽しい」なんじゃないか?

8月3日(日)
一日の大半を一人で過ごしていないと死にそうになります。実際に身体に症状に出ます。肩が岩のように重く、痛くなり、視界が白くなり、息が出来なくなります。

8月9日(土)18:58
俺の好きな眼というのがあってね…ふたつの対立するようなものが共存しているような眼だね。

9月5日(金)2:00
人間としてのaiko

2011.11.05 21:11|未分類
6月21日(土)18:20
アイコの音楽は人と関わることなしに成立しない。

6月25日(水)19:10
開演前 アニタオデイ
モータウン(レアグルーブ寄り)
ラウンジ系
アレサフランクリンもどき(シンクとか)
ディスコ(クインシージョーンズとかそのへん、スタッフとか)

6月26日(木)9:28
今日のaikoの言ったこと、全部消えていく。凄く大事なことばかり。録音していたら、何度も何度も聞いていただろう。でももう既に殆んどのことが思い出せない。草食男子、トイレに行きたい人は行ってきて、小学生甘納豆、すっげー楽しい、教育学部の教授、すいませんでした、物理学の大学院生、ナースの方、あいこー、はいよはいよ、こう見えてけっこう根に持つのよ、スケキヨ、赤いランプ、あとでしばかれる、もっとしゃべりたい、赤いランプの上には目玉のおやじ、アネキャンは読んだことないなあ、ヒールから始めないと、ステージから落っこちた、

6月26日(木)12:07
全体性、ひとつの部分が欠ける、全体の意味合いが変化する(他の部分もすべて間違いになる)
AとBとCを愛しているとする。Aを愛するためにBとCをないがしろにするとする。するとAさえも愛せなくなるだろう。BとCも愛しているのなら、その愛も開放しなくてはならない。自分が何を愛するのかというのは自分で選ぶことのできるものじゃない。俺はaikoだけを愛してるんじゃない。ジャズと無縁にはなれない。美しいと思うものは生活の中に、aiko以外の音楽の中にもある。世界を愛する。世界とaikoは無縁ではない。俺は世界を愛する。aikoは世界を愛する。俺は世界を見る。

当然というか、俺は音楽ぜんたいを愛しているんだ。音楽ぜんたいとは、世界そのもののようなものだ。悲しみぜんたいのようなもの。自分の悲しみじゃない。世界にある、いろんな悲しみ。ひとりひとりが生きていく中で経験する悲しみ。街を歩いていて、そのような街を行く人の、ひとりひとりの悲しみを感じられるようなときがあって、涙が出ることがある。みんな悲しいというか、生きているということは悲しいことなんだな、と思う。でも、なぜか愛おしい。街行く人たちに、「君が好きだ」と、ひとりひとりに言いたくなることがある。俺にとって、音楽ってそういうものだから。そういう悲しみを愛している、「人間」を愛していることが、そのまま音楽への愛になっているような気がする。

だから、aikoの音楽であるかそうでないか、というのはそんなに問題ではないというか。「人間」が好きなのかも。

6月26日(木)12:10
たとえでこぼこであろうが、でこぼこな人間はでこぼこな言葉で語るしかない。でこぼこだからと言って黙ったら終りだ。

6月26日(木)17:51
逃げたいときは思い切り逃げる。

6月26日(木)17:59
つまり、人間に対する愛が感じられていなければ、音楽が響くわけがない。

6月29日(日)3:59
求める気持ちが自然に発揮される環境

7月1日(火)2:30
塩田 夢の中の俺の恋するおかっぱの女の子。

7月4日(金)14:57
食事というのはコミュニケーション、芸術の中でも最もプリミティブなものであると思う。直接的な力を持っている。

7月5日(土)16:19
実感がなかったから、理論に頼らざるを得なかったわけだ。

7月7日(月)14:47
電車の中にいるとどきどきする。けれど、このどきどきが心地いい。ずっと部屋にいると精神が滞る。淀む。精神の緊張は心地いい。もっとハラハラしたまえ。

7月7日(月)18:37
秋は生から死への視線を感じる。夢の道は、生に対する死者の視線のように感じる。死んだ世界を書くことによって、生の世界を浮かび上がらせているように感じる。とにかく、死んでいる。時間は止まっている。永遠。秋は死を強く想像した、生きている人間の温かさを感じる。夢の道には生きている人間の温かさはない。死んでいる。色というものがまるでない。時間は止まっている。

7月7日(月)19:19
金は価値交換媒体。

7月14日(月)
いちばん大事なものを見ていれば、2位以下のものも見る余裕が出てくる。一番大事なものを見なければ、2位以下のものにはまったく目が行かなくなる。何に対しても目が行かなくなる。一番大事なものを見ていれば、ずっとその一番大事なものだけを見ていることもあるかもしれない。一番大事なものから2番目に大事なものに移るには、一番大事なものが満たされてなければいけない。その次に2番。一番大事なもの、2番目に大事なものが満たされていれば、その次に3番目にいくかもしれない。優先順位の高いものが満たされていなくて、優先順位の低いものが満たされるわけがない。大発見をしたと思っているけど、当たり前のこと。

7月17日(木)12:09
愛していない 愛している 近接

7月20日(日)18:58
好きだった人を諦めることが出来ていることにも落ち込んでしまう。自分の中の中心のようなものがなくなってしまったわけで、もう二度とその先の人生を生きることは出来ないから。

2011.11.05 20:15|未分類
6月9日(月)0:12
かなしいかなしいかなしいかなしいかなしいかなしいかなしいかなしい

6月11日(水)22:42
アイコにとってはさ、アイコは常にぴったりとくっついてるんだよね。どこに行ってもアイコはアイコから離れないんだよね。凄く羨ましい。愛しい。

6月10日(火)14:41
楽しいことが正しいこと。

6月12日(木)12:44
ひとつとしてそれだけで存在しているものなんてないんだ、すべて他との関係性の中で存在しているんだ、ということを考えました。自分の、「これをしたい」という気持ちをひとつでも抑え込むと、すべてのバランスが崩れてしまいます。

6月12日(木)16:01
語るべき言葉を持たないときはいったいどうやって叫べばいいんですか。ただ焦点を失ってぼんやりしているだけ?哀しさは言葉を生む。哀しさすらないときは?希望がなければ哀しさもない。これは言葉ではない。
もう長い間、言葉が出てこない。何かを美しいと感じる瞬間がまったく訪れなくなった。もう四ヶ月くらいたつかな。意味があるのかな。

死んだ時間を生きることが。「これをやらなきゃいけない」と自分で考えたものであっても、それをしている間、実感として、生きた時間を感じられないとしたら。しかし、生きた時間が感じられるようなことに、素直に向かっていくことができない。手放すのが怖い。「いまはこれをやるべきだ、そうすれば自分の『行きたい』場所へ行ける」という考えのほうが強い。でもそれは間違ったことだ、おそらく。自分が行く方向は、他の人に委せるべきなんだ(自分の考えではなく、実感に基づくべきなんだ)。「この道を行って、あそこに行くぞ」と考えるんじゃなくて、いつも自分の実感に基づいてふらふら漂って、あとから振り返ってみて、自分はこんなところに来ちゃいました、というような生き方のほうが楽しいだろうし、不自然ではないんだと思う。
何かに向かおうとしている限り、何かから目を背けることになるのだ。「どこに行く」とか、そんな方向は本当は存在しないんじゃないか。あるとしても、誰にも判らないんじゃないか。どこに行くとか、そんなの俺たちの決めることではないんじゃないか。

6月14日(土)16:55
神経症というのは、事実を受け入れない習慣から起こるものです。どういう事実を受け入れないのかというと、当人にとって不快な事実を受け入れないのです。不快なものを不快と認めることが肝心です。「苦しい苦しい」、それが正しいのです。事実は事実です。

6月14日(土)17:44
楽器って音楽の内容と関係なく、やってる方は楽しめてしまう。だからたちが悪い。
あと俺の嫌いな言葉のひとつが「音楽漬けの生活」ってやつ。楽器やってれば音楽漬けってやつになるわけ?楽器やってるのに音楽に「漬かる」どころか、かすってもいない人がたくさんいるけど?一日じゅうバンド練習なりやってれば「音楽漬け」?一日じゅう音楽聴いてれば「音楽漬け」?なにそれ?音楽ってなに?判ってて言ってんの?音楽を感じるってどういうことか判る?

6月15日(日)15:59
喜びを感じるときでも、哀しみを感じる。でも、その哀しみはいとおしいんだね。たぶん、自分ひとりの哀しみじゃなくて、他人の哀しみというか、世界に存在する哀しみそのもののようなものを感じるから、いとおしくなるのかも知れないな。哀しいから嬉しいんだって言ったらちょっとあれかな。

6月16日(月)10:10
赤と茶色のトレーナー。茶色い髪、肩までくらいの長さ。少し薄い青のだぼついたジーンズ、白いスニーカー、茶色いたすき掛けのかばん。身長152くらい。

6月16日(月)16:05
遠足

6月17日(火)14:57
他人に、自分が何を考えているかを説き伏せても状況が変わるわけじゃない。他愛もないお喋りなんだ。天気の話以外をするべきではない。

6月18日(水)1:35
いまの目標はひとつ。「楽しむこと」。

6月18日(水)16:15
楽しいというのとは別の価値。リアルな痛み。「切ない」というやつか。それを求めてる。
これを「楽しい」の中に入れてしまうのも可能かも知れないけど。

6月18日(水)16:59
自分が何を求めているのかが判らないんだけど…周りの人たちは、「楽しければいい」とか言っているし、俺も昔はそういうふうに考えていたけれど、いまは「楽しい」という以外の価値、一種のリアルな苦しさを求めているように思える。その苦しさが自分に見せてくれるものは人生において最も大切なことであるように思う。この「苦しさ」というのは、世間で「切ない」という言葉で言い表されているものだと思う。俺は20歳とかになって初めてその苦しさに出会った。それ以来、その苦しさとどう向き合うかが俺の生きる目的のようになってしまった。「楽しいか楽しくないか」というのは、まったく無視されるようになった。人生を失敗したくないため。その苦しさの中に自分にとって一番大切なものがあるというのは間違いない、と考えるようになった。

これは恋なのかな?一応恋とは別のものと考えるようにしている。これを恋だと言ったところで一笑に付されるだけだものね。実際、これが恋であるかどうかは自分にとってはあまり問題ではないのかも知れない。ただ、いまはこの痛みを痛み尽そうと考えるだけです。ただ、いま自分が置かれている状況は、いままでに通りすぎてきたどんな「恋」よりも恋に近いものである、と言えそうです。振り回されているんです。こんなこと言っても、やっぱり真面目に取り合ってもらえないのかな?冗談で言ってるんじゃないんだけど。こういうのって誰にでもあることなの?単なる気違いの妄想として片付けられてしまうようなものなの?俺は物事をまったく疑わないわけじゃないよ。頭ででっち上げてるんじゃなくて、実際に痛みを受けて、上のようなことを言ってるんだよ。「根拠のない気違いの妄想」として片付けられてしまうようなものなの?

6月18日(水)18:52
俺は恋をしている。無理だとか無理じゃないとかそういう問題じゃなくて、俺はこれを否定するんじゃなくて、これに向かっていかないといけないの。俺が選んだことじゃないの。問題は俺がその苦しさを受けとめて、その上で生きられるか、ということなの。俺個人の、俺ひとりの問題なの。叶うとか叶わないとか、そういう問題じゃなくて、俺個人の満足の問題なの。付き合うとか付き合わないとかとはまったく別の問題なの。判らないものなの?こういうことって。
2011.11.04 14:21|未分類
6月4日(水)0:37
学校から帰ってきて、頭の中は腐った水の、アーモンドの臭いのする、くすんだスポンジのようになっていて、体の中の水も腐っていた。疲れている。何もしたい気は起こらない。感覚が固まっている。例のごとく、街を歩いているときに、道行く人達に対して、「なあ、なんでお前は生きているんだ?生きていたって何もいいことなんてないんだ。だったら早く死ねばいいじゃねえか。無駄に生きているのはみっともないよ。」などと、問い詰めそうになる。疲れている。それで、早く寝ようとする。なかなか寝つかれない。ふと、怒羅無とかいう楽器の棒切れを、まる三日くらい触っていないことに気が付いた。練習だいに向かって適当にトカトントンとやりだした。自分の場所。たぶん、飽きるということを知らない。けれども、他の物事を捨ててまでこれにしがみつく勇気もない。自分の居場所だと感じる。けれども、信じることが出来ない。これをずっとやっていると、大切なものを失いそうな気がする。トントンとやっていると、自分はけっきょく、この楽器からは逃げられないんだなあ、と思う。ぼくは常に生活というものを求めているのだけど、ぼくの場合、この楽器なしに生活というものはあり得ないんだ、ということを、痛みを通して思いしらされているようです。だから、信じられないとか言っている場合じゃないんだよ(笑。信じられないから、こんな楽器に縛られてたまるか、と思って自由に動こうと試みるのだけど、この楽器からあまり離れていると痛くなってきて世界の色がなくなってきて無感覚になってきて、かえって不自由になるというか。信じざるを得ないんだよね。信じないと死にかけるんだから(笑。振り回されている。結局、俺はこの楽器を求めているんだろうな。自分を知るというのは難しい。しばしば、自分の欲望を軽蔑してしまう。俺は、自分の欲望を軽蔑し、復讐され、服従し、軽蔑し、復讐され、というのをずっと繰り返しているようだ。

6月4日(水)17:16
どんな環境にあろうが、その環境にいちばん適した働きが出来るかどうか。たとえば、バイトもしていない、学校にも行っていないときは、楽器をたくさんやって、音楽を聞きまくったり、本を読みまくるのが、環境に適応しているといえるかもしれない。学校に行っているときは、学校の授業に出て、宿題とか、勉強もそれなりにやることが必要とされるかもしれない。さらにバイトを始めると、自由な時間が減るだろうが、そのぶん時間を意識的に使うようになるだろう。これが環境に適応したかたちだ。バイトをしていないと、している場合と較べると自分の自由な時間が多いから、時間に対して意識的にはなりにくい。自由な時間が多いほど、時間に対して意識的になるのが難しくなる。すべて環境に適応している。神経症者は外相と内相の関係を捉え損ねているのだ。

6月4日(水)23:05
アイコを見たときに感じるのは、当然性欲とは違った種類のものだから、オナニーをしたところで解決するものではないというのは当然判っているんだよね。けど、やっちゃう。ムラムラくるからやる、というのとは違うんだよ。いや、することもあるけど…ライト当たりすぎてると駄目だね。もっとスナップに近いもの、顔の肌の脂とか、温度が感じられる写真じゃないと…顔の脂がないと駄目だね。顔がちょっと汗ばんでいないと駄目だ。アイコの顔の熱が感じられないと…アイコは俺に熱い息を吹きかけるんだ。アイコとセックスしたい。アイコの温かい息が…アイコの髪の毛の匂いをかぎたい。話がそれた。性欲によってではなく、取り敢えずオナニー以外に何が出来るんだってことだよね。アイコの顔を見る。アイコの赤くなった頬がね。オナニーするのは、しるしみたいなもんだよ。俺とこの人は繋がっているんだ、っていうしるしを作るんだ。オナニーをすることで架空の繋がりを強固にしていきたい。信仰の問題だな。オナニーってのは象徴的行為なんだよ。アイコの温かい息を、アイコの顔の脂を、アイコの小便の匂いを、アイコの汗の匂いを感じさせる写真は少ない。

6月8日(日)7:12
自分が「生きていること」に少しも明るい展望が見い出せないのです(自分の「未来に」、ではありません)。「これがあるから、生きていたいと思う」というのが、いまのぼくにはないのです。いままでは、どんなに一日を、毎日を生きていくのが過酷であっても、「生きていれば、こんなに良いものを見ることができる、だから死にたくはない」と思えるような、自分にとって重大なものを、たとえば音楽の中とかに、見い出せていたのです。それが自分を生に繋ぎとめていたのです。いまは、自分に「生きていたい」と思わせるもの(どんなに小さなものでもいいのです。たとえば、夕飯を楽しみにするとか…)が、なくなってしまったのです。感じられないのです。ぼくは疲れているだけなのかも知れません。生きていることに、何も望むものがなくなっても、取り敢えずは生きているつもりです。再び、何かに憧れたり、何かを愛したりすることがこれから自分に訪れるかもしれません。取り敢えずは、それまで自分をこの世界に繋ぎとめていようと思います。でも、いまは涙が止まらないのです。いままでは、「生きていたい」と思って泣くことはしょっちゅうありました。でも、いま自分が泣いている理由はちっとも判りません。「自分は何も望んではいない」ということを素直に感じます。生きている人たちが馬鹿のようにさえ見えます。何もないのに。でも、死んでも何もない。生きていても何もないとしても、これから先、何かが訪れることを期待して、生きているしかないでしょう。でも、いまは世界が酷く、「からっぽ」に見えます。からっぽな世界に、80年も生きていて、それがいったい何になるというのでしょう。それがいまの感想です。でも、どうせ一晩寝ればこんな気持ちもなくなるのです。たぶん。どうせ明日には、アイコの音楽を聴いて「生きていたい」と思って泣いているに違いないのです。ぼくに死ぬことは絶対に出来ないでしょう。ぼくはたぶん、疲れているだけなのです。

6月8日(日)23:01
自分が音楽を聴いて動かされている以上、いまの自分は塗り変えられつつあるものであるということであり、だからいまの自分にとっては、音楽を聴くことで自分が塗り変えられていくのを見届けることが(その音楽を自分のものにしてしまうことが)、最も切実な問題なのです。いまの自分が求めているのはその一事に尽きます。

いまのぼくは、自分のまだ知らない価値を目前にして、動揺しているというような段階にあるのです。その存在を知ってしまった以上、それを自分のものにしないわけにはいかないのです。常に、現在の自分の眼に映っているものは、本当の世界ではない、もっと生きるに値すると思えるような価値がある、けど自分はまだその価値を充分には見つめてはいない、と感じているのです。過渡期にあるのです。落ち着いてはいないのです。毎日、価値の変動があるのです。ある程度は落ち着くまで、待っていようと思うのです。変化するときは、変化するままに任せておこうというわけです。俺はただ見ているだけです。

毎日、昨日言っていたことと真逆のことを言っているのですから。そんな人間に、いったいどんな約束が守れると言うんですか。

じっとしているだけで「成長」するんだから、楽なことではあるんだけどね。下手に反抗したら痛い目に遭う。

あと、いまのぼくには、無条件に好きだと言えるものは、なにもありません。「君はなにが好きなの?」と訊かれても、なにもこたえられないのです。好きなものなんてなにもないんです。でも、生まれて初めて、好きになれそうなものを見付けたんです。それをなんとか好きになろうと頑張っているんです。

楽器に関して言えば、音を出すことの必然性に関わる問題だ。音楽を愛していなければ、音を出したいと思うものではない。愛していれば、出すでしょう。泣きながらね。

ぼくがここで言っている「愛」というのは、世界に対する、生きることに対する尊敬のような気持ちのこと。ぼくにとっては、そういう気持ちがなければ、音を出したいとは思わないですよ。

だから待っているんです。なんかすいません。
2011.11.03 13:21|未分類
5月23日(金)14:28
自分の中に音楽があるとき(音楽が自然に生まれるとき)、俺は歌える。自分の中に音楽がないとき、俺は歌えない。俺自身とは切り放された、声が出されるだけ。

5月24日(土)4:35
なぜかいましあわせだ。

5月25日(日)0:43
自分のことを話そうと、少しでも自分の感じていることを知ってもらおうと努めたこともあるけど、話せば話すほど、自分と周囲の人たちとの溝が深まっていくのがわかったから、やめた。何も話さないのがいちばんいい。

5月26日(月)4:04
俺はアイコに出会ったあと、ある意味では、間違いなく不幸になっている。

5月29日(木)13:03
共有的な状態を生み出すこと

5月29日(木)14:51
ある種の喜び。自分に求めるものがあることの喜び。求めているからには、それを得ようと努める。得ようと努めれば、当然得られる。これは腹が減って、自分の食いたいものを食うのと同じ。食欲。

5月29日(木)15:05
時間の大きさ
笑うほかないから笑っているわけだ。

5月29日(木)15:46
俺は可能性について話しているのではない。そこにあるものについて話しているだけだ。

5月29日(木)16:10
何年ぶりかに「家」を感じた。

5月29日(木)16:43
世界は意味があるわけでもないし不条理であるわけでもない。ただ単に、それは在るだけなのだ ロブ・グリエ

けれども、最終的にうかびあがってくるのは、語り手である夫の嫉妬の情念の執拗な起伏である。これは視線というより情念の小説ではないか、と私には思われた。
そういう観点からすると、彼の作品はすべて、作中人物の内面にうごめく情念の起伏に―幻想、幻覚、迷妄の跳梁にひそかに焦点をあわせているのがよく分かる。「表層」をたどる客観性も視線も、じつは読者を内面に誘いこむ仕掛けなのだ。「ヌーボーロマンはもっぱら完全な主観性をめざす」、ロブ・グリエがそんなふうにも断言しているのを思いだせば、そのあたりの事情はいっそう明瞭になろう。
要するに、現代の人間が、ただ「在るだけ」で救いも慰めもない世界のなかに、頼りなく投げだされているのを見定めるところから、ロブ・グリエは出発した。

5月30日(金)19:06
本屋で漫画のコーナーを見るのはとても愉しい。ガロとかその周辺の漫画ね。ブックオフにはその辺の漫画は置いていないから、つまらない。
以前ほどは文学などの、文芸には興味が持てなくなってしまった。思索の助けや契機を求めるよりも、現実そのものを見ることの方に興味が移った。または自分の想像を助けるもの。想像の契機を与えるもの。
というか、 文学を「思索の契機として」読んでいたという時点で俺は文学というものをまったくわかっていなかったといえるね。
とにかく、それを見てイメージが膨らむかどうか。想像するきっかけを与えてくれるものとして。
興味は完全に漫画の方に移っている。

6月1日(日)22:38
音楽ってのは音のないところにあると思うんだよね。「歌は歌のないところから聞こえてくる」。間違いない。

6月2日(月)3:01
悲しさを感じない。痛みを感じない。希望を感じない。頭は多少は働く。感覚はない。重要なのは、希望を感じないというだけで、そこにはもともとなんらかの希望があったはずなんだ。一時的に希望を感じられなくなっているだけなんだろう。けれども、希望が戻ったときにはもう手遅れで、それはもう手に入らなくなっているかもしれない。それが怖い。
2011.11.02 11:44|未分類
5月16日(金)16:44
見たことがない。まるで子どものような…小学生くらいの子どものように見えた。けれども知性は鋭く、スタイリッシュで乾いている。クールだ。年は24・5だろう。圧倒的だった。鋭い知性、少年性、スタイリッシュで、クールで乾いた表現。これはぼくの求める表現だけれど、これを外見の印象で表現する人は生まれてはじめて見た。

5月17日(土)19:40
自分は歌に対して特別な思い入れを持っていると認めざるを得ない瞬間が、いままでにあまりにも多く訪れているんです。それは例えば、毎日の、苦行、拷問でしかない夕食を終えて、椅子に沈み込んだときにテレビから聞こえてくるCMの音楽を耳にしたとき…そんなときにとても大きなかなしさを感じる。泣き出したいような気になる。自分の中にはかなしさが育っているだけだと思う。…こういう時にしか愛を自覚することはないのだ。歌に対する愛なのか、世界に対する愛なのかはわからないけど、とにかく愛としか言いようがない。
でも、こういう経験の積み重ねが、自分をある確信に導いているのだろうな。自分には何もわからなくて、自分にとって確かなのは、この確信だけ。それ以外に何も信じられるものはない。

5月18日(日)13:19
昔、大学二年くらいの頃だったかな、引き込もっていたとき、一日じゅう座り続けるというような、座禅に近いことをやっていた。朝の九時くらいから、窓際に正座し、昼飯は食わずに、夕方の六時くらいまで、ただ空を眺めている、というのを毎日続けていた。それはなかなか楽しかった。座禅を始めて六時間くらいを過ぎると、何か音楽を聞きたくなる。自分のやりたい物事が頭に浮かび、消えていく。夕方に、座禅を解き、聞きたいと思っていた音楽を聞く。俺はそのとき、風の音を、遠くに聞こえる電車の音を聞きながら、空を漂う雲の動きを感じながら、音楽を受けていた。俺は世界に溶けこみ、音楽もまた、世界に溶けこんでいた。俺はただ世界の中にいただけだった。そこには匂いがあった。色彩があった。

5月18日(日)21:36
どこであれそれが始まりそうな場所で
みなさんはそこから自分の人生が進むべきへ進んでいく、というしるしのようなものの存在を感じたことがありますか?ぼくはあります。いまのぼくにとってのそのしるしとは、アイコの動いている姿であったり、アイコがラジオでしゃべっていることだったりします。そのしるしを目にすれば、ぼくの人生は進むべき方向に滞りなく進みます。進んでいる音が聞こえるんです。物事は流れるべき方向へと流れます。しかし、このしるしの存在を見失ってしまうことがあるんですね。ぼくの場合は、アイコの動いているところを見ない、とか、アイコのラジオの録音を聞かない、とかです。それらのしるしをずっと見ないで過ごしていると、自分がどこへ向かいたいのかがまったくわからなくなってくるんですね。そういうときには、なにをしたって間違っていることをしているように感じられます。進もうにも、どこへ進むのか?そういうときに、アイコの動いているところを見たりするでしょう。そうすると、それをずっと見ているんだ。そして、確かな手ごたえを感じるんだ。正しいことをしているという実感があるんだ。そして、そこは物事が始まる場所なんだ、と思うんですね。ぼくの場合は、そこからしか、なにも始まり得ない、ということになるんですね。ここ数ヶ月のぼくは始まってもいなかったってことです。

アイコの表情の中から自分の人生が抜け出ようとしているのが見えるんです。

5月18日(日)21:55
俺が音楽に対してさ、いろいろ考えていたり、音楽をさ、命がけで聞いているのはさ、「音楽を深く知りたい」とかいう向上心、好奇心によるものでは絶対になくて、誰だって音楽を聞くときに感じる「匂い」だとか、「懐かしさ」、「親しみ」のようなもの(俺だって昔は感じていたんだよ)、それを再び感じたいという、その一心からなんだよね。だから、以前のように音楽が聞きたいという、普通の人と同じように、音楽に懐かしさとか、親しみを感じたいという、その一心で頑張って来たんだよね。まだ、その目的は達せられていない。

5月21日(水)1:40
未だに人は加害者と被害者に分けられると考えているんだろう。自分が被害者だ、加害者だ、と考えたところでそんなのは空想に過ぎない。人はみんな無意識の加害者であると同時に無意識の被害者であるとも言える。被害者・加害者という分類はまったく意味を持たない。殺人犯だって一日じゅう殺人犯をやっているわけじゃない。多くの人間はすぐに物事を善悪の二元論に持っていこうとする。そんなのを信じている人間が多すぎる。
2011.11.01 12:17|未分類
5月8日(木)0:59
言語に対する反抗。言葉を使わないことで「唯在」に近づく。

5月8日(木)1:59
アイコが最も強いメタファーであることは変わりはない。いまも変わらず、アイコと、アイコの身に付けるもの、アイコの周辺にあるものが、自分にとって最も強い力を持ったメタファーである。最も強く自分を動かす契機である。アイコの表情が、アイコの声、アイコの身に付ける服、アイコの歌、アイコの音楽が、最も強いメタファーであることに変わりはない。言い換えると、アイコの表情や声や身に付けているものが、自分に何かを求めているように感じる。

5月8日(木)10:45
アイコの音楽を聞いていちばん強く感じるのは、「不可能性」。巨大な、厳然たる不可能を前に、負けるとわかっている戦いに挑み、散っていく。

5月10日(土)16:54
俺は根本的になまけもので、なにもしないのがいちばん好きなんだよね。好きというか、いちばん豊かに感じる。「する」にしても、「なにもしない」に含まれていればいいんだよ。なにもしないときには、想像力が勝っている。「する」にしても、なにもしないときのように、想像力が勝っていなければだめだ。豊かでなければ。「為に」するのは大嫌いだよ。

一般に「努力」という言葉は間違った使われかたをしているみたいだけど(あるひとつの事柄に意識を継続的に傾注すること、のような)、俺は「なにもしていない」ときから既に努力であると思うのね。俺からしてみれば、「為に」するところがあれば、それは努力ではない。それを努力と呼ぶんであれば、俺には努力は必要ないです。

まあ、もともと俺には努力というものは無縁だし、これからも無縁だと思いますが。興味はない。

5月13日(火)11:49
表現は発信だとか考えられているけど、違う。表現はまず受信であり、同時に発信でもある。双方向でなければ在り得ない。音楽を聞く人は、聞いている最中に表現している。音楽を受けるのも発するのも、両方とも自分の声を発しているの点において、たいした違いはない。

5月13日(火)23:29
髪は、肩までくらいの長さを後ろでひとつに結んでいる。黒髪。いまふうではない。
一生懸命
でもたまに寝たりあくびしたり足を組んだり
器用にこなしちゃうんじゃなくて
小学校の同じクラスにいたら恋に落ちていた
あのころはものごとはもっとずっとシンプルだった
ビビアンスー
感覚の鋭さ故のエキセントリシティー

5月15日(木)0:45
文学、ジャズ。もともと俺にはこのふたつくらいにしか関心はなかった。そこにアイコが現れた。生まれてはじめて自分にとって意味のあるものを見たような気がした。アイコに属さないものを、排除しようとしたのは、アイコの見ている世界が、自分にとってほんとうに意味のあるもので、それを絶対に逃してはならないと思ったから。アイコとは無関係なことに手を出せるようになるまでに一年もかかってしまった。そのあいだはずっと、アイコとは無関係なことに手を出すのが怖かった。

5月17日(土)21:21
自分が何をやりたいのかがまったく見えない。こういうときは、なにもしないのがいちばんいいような気がする。「なにもしたくない」、でいいじゃないですか。生きてりゃいろいろありますよ。

5月16日(金)16:36
読むということは、既得の知識を本文に当てはめたり、本文から新たな知識を獲得することではない。逆にあらゆる知識の束縛を打ち破り、そこから抜け出していく行為なのだ。
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