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2012.02.29 16:26|未分類
4月13日(月)14:57
順番が違ってる。大学そのものが自分にとって必要ないとは絶対に言えない。いまはいまのことしか分からない。不定。

いま俺が大学に行くのをやめるとして、それはなんの宣言でもない。ただ飯を食うとか、そういうのと変わらない。何も決めているわけではない。だって五分先のことはわからないじゃないか。何も決めない。

4月13日(月)15:26
いまはいまのことしか分からない。しかし、未来のことを決定するように迫られたら、途端に世界は地獄になる。

学校へ行くことを決めても、行かないことに決めても、どちらも駄目だと思う。

4月13日(月)15:30
俺は一日一日を、その時その時を、自分が一番楽しいように、一番満足の行くように、過ごしてみようと思う。

4月17日(金)22:36
演奏 苦しさ 愛 生きてる 苦しさ 感じるから 演奏 楽しさ 苦しさ は なくならない しかし 演奏 生きてる 間に 苦しさ 生きてる 愛 生きてる 生きてる 楽しい!

4月19日(日)15:49
責任を奪われるということは支配されるということであり、自由を奪われるということだ。

4月20日(月)16:35
「人間を感じられること、リアリティを感じられることを求めている」とか言ったが、いくらそれを感じられても、自分が何を求めているのかが分からなくなるのであれば、意味がない、と思ったけれども、実感が感じられなければ何も意味を持たない。実感は目的ではないけれども、かといってなくしたら何も意味がない。実感は最初なのだ。
「それ」を求めていない状態でやったって意味がない。

4月20日(月)16:40
実感がなければ、「自分が何を求めているのか」なんて、ますます分からなくなるだけではないか?

4月20日(月)16:43
その環境にはその環境に適した働きがある。

4月25日(土)15:28
生に全体性があるように、アイコにも全体性がある。

4月28日(木)13:02
40代前半、髪は少年のように短い。茶髪。たぬきみたいな目。目つきが上を向いたときがかわいい。目にくまっぽいのがある。20代の服装。けれども若作りしてる感じはまったくしない。落ち着いた服装。化粧っ気がない。口紅は塗っていないかもしれない。芸術的な感じがする。指輪はない。何人もの男と付き合ってきたという感じがする。

5月2日(土)1:17
未練がなければわざわざ作品化しないですからね。そこにこだわりがあるから、そういうのを描くんであって。

5月2日(土)15:33
別にアルバイトを始めなくても、学校へ行かなくても、この部屋の中に楽しいものはあるはず。探さないだけで、探せばあるはず。努力をしないといけない。理論はいけない。

5月2日(土)15:39
つまり、心の自然(変えられない部分)と、努力できる部分(変えられる部分)との境界を探っているのかも知れない。内相と外相。

5月2日(土)15:43
これは座禅だ。

5月2日(土)15:48
例えば、「何もやりたくない」。それすらも頭で作ったものかも知れない。「バイトしていないから何もやりたくないのだろう」とか、頭で作っているから、本当に「何もやりたくない」かのように思えてくるのではないか。頭で作っているから、本当のことが覆い隠されているのではないか。

5月2日(土)15:50
病院へ行くのを辞めたのは何故だったか?

5月2日(土)16:25
「気分の変化の原因を特定することは不可能だ」という考えにとらわれていた部分がある。ある程度は可能だ。「一人は寂しい」とか、「腐ったものを食べたので腹が痛い」とか。普通は日常的にそのような考え方をするものだ。俺の場合はそのような考えを避けることが抑圧になっていたのだろう。「アルバイトをしていないから苦しい」「学校へ行っていないから苦しい」それでいいんだよ。学校へ行くのを辞めたのだって、「学校へ行っているから苦しい」と判断したためだろう。そうやって生きていくしかないんだよ。

5月2日(土)18:51
ここが正念場。「バイトをしていない=駄目」という図式を疑わないといけない。「まったく」手応えがないわけではないんだから。安易な図式化は避けないといけない。図式化するプロセスに問題がある。現実に問題があるというよりも。「黒か白か」という図式化にね。この環境でもまったく楽しめないというわけではない。この環境でしか得られないメリットを存分に発揮しないといけない。

5月3日(日)1:59
「アイコは誰なのか?」というのも常にある問いなんだけど、当然解らないわけよ。アイコはグルタミン酸とリボヌクレオタイドナトリウムである、とか言われれば納得できるかも知れないけど、アイコはアイコなわけでしょ。説明になってない。「アイコは誰か?」「アイコはアイコだ」説明になってない。
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2012.02.28 14:32|未分類
4月6日(月)17:09
事実本位、つまりあるがままと、そうでない状態との区別がつかないのだ。まったくの気分本位というのはありえず、部分的にあるがままを含んでいるものだと思うのだ。

4月6日(月)17:18
俺とアイコとの間に、第三者が介入することに抵抗を覚えていた?「条件つき」で関わることに?時間以外にないだろう。

4月6日(月)17:21
「アイコに向かっていく」とは、理論でもなんでもなく、「感じ」から出発したものだ。それを押さえ付けようとすれば、それこそ理論だ。

4月7日(火)10:03
楽に対する欲求よりも好奇心の方がまさっている。

4月7日(火)12:41
あるがままとは意識してなるものではない。

4月7日(火)12:42
俺は常に向こうからやって来るところのものを生きたい。

4月7日(火)14:49
失うことを怖れる回路が部分的に変化した。ある意味で投げ遣りになった。

4月8日(水)10:55
あるがままとはつくられたものではないとか言いつつ、「アルバイトをすれば」とか「学校へ行けば」とか考えていた。

4月8日(水)15:58
「あるがまま」というのを意識して生活するのと、通院することとは別であると思う。「あるがまま」とは、意識するものではないと思う。生活の骨折りの中にあるものであると思う。それでは、「生活」とはどこにあるのか?それを絶えず探し、努力することが生きることではないのか。

4月8日(水)16:03
例えば、あるがままになれるとしても、それが「生きること」に直結していなければ意味がない。

4月8日(水)16:05
何故あるがままが重要なのか?生きていればいいじゃないですか。懸命に。

4月8日(水)19:37
「やらなければいけない」という義務感が、実際にそれをやることで払拭された時、はじめて楽しむ余裕が出てくる。

4月10日(金)12:48
直感による選択にはすべて理由があると思っている。例えば、学校へ行くのを「間違っている」と感じて行くのをやめたとしたら、何故そのように感じたのか、その新しい環境の中の何に、自分の求めているものがあるのかを理解するまで、その環境に居続けなければならない。もちろん、直感的に「ここは間違っている」と感じるまで、「普通は」そこから抜け出すことはない。俺の問題は、去年の6月頃に学校に行っていた時に感じていた、「これは間違っている」という直感、それがどこからやって来るのかを理解しないまま放置してきたことだ。

また、いま学校へ行くのをやめようとすることにも、去年の七月のせいで、歯止めがかかっているということ。学費のことで。もし、去年の七月のことがなければ、迷うことなく、学校へ行くのを中断することが出来る。しかし、いま迷っている。つまり、自分の直感を抑え込もうとしている。学費の100万は、それを、いまの直感を押さえ付けて生きていくだけの価値のあるものなのだろうか。100万をけちることで、いまの直感を押さえ付け、これから先もっと酷いことになるのではないか。だったらいまのうちに手を打っておくべきなんじゃないか。

去年の七月のことはこれ以上引きずるべきではない。学費のことを考えている以上、あの問題はまだ終わっていない。

4月10日(金)12:57
いま直感によって学校へ行くのをやめようとしていること、これはあるがままだ。これを押さえ付けようとしている力は?七月に端を発している。

4月10日(金)13:01
いま感じているものは、去年の6月に感じたものと同じだと思う。逃げているように感じる。不安があり、落ちつかなさがあり、逃げているような落ちつかなさ。そういう生活を続けていることに意味を感じられなくなる。これは自分の人生なのだ。

4月10日(金)13:04
いま学校へいけなくなるとすれば、その責任の所在は自分ではなくあいつにあるということをはっきりさせておかなくてはならない。

4月10日(金)15:25
いろいろ言いようがある。「神経症的なとらわれがあったから、学校へ行くのをやめたのだ」、「ただ、学校へ行っているのが間違っていることのように、逃げているように感じられたから、行くのをやめたのだ」。しかし、「間違っているように感じる」ことも、神経症的なとらわれも、同義であろう。神経症的なとらわれはどこから来るかというと、欲望から来る。神経症的なとらわれを排除しようとすれば、自分の欲望そのままに生きているという実感を感じることは出来ないだろう。逆にそれが神経症を生む。とらわれそのものになっていることが重要だ。また、重要なことは、神経症の治療とは、とらわれを否定することでは決してない、ということだ。とらわれそのものになりきることが重要だ。通院することと、とらわれていることとは相容れるものだろう。そこを誤解していたのだろう。通院することを決めれば、自分がとらわれていることを否定しなければならなくなると思っていた。
2012.02.27 14:41|未分類
3月16日(月)4:42
記号というものは重大だ。例えば、携帯の待受をaikoにするかどうか、それだけでもいろんなことに影響があるはずなのだ。

3月16日(月)10:03
「人生を失わないためにはaikoを見続けること」。これは重要な事実であると思う。

3月16日(月)12:07
アイコの音楽を久し振りに聴いた(数日振り)。俺はここにとどまらなければならないと思った。この感覚が一番信用できる。

3月16日(月)12:25
俺は音楽に対して楽しさだとか心地よさ、感動なんてものは求めていないなってね。アイコに出会うまでは、「感動を求めて」音楽を聴いていたっていうのにね(笑)。

3月16日(月)13:07
俺が二年以上の間に直面している問題を端的に表すとこのようなことなのかもしれない。

・aikoを愛せていないこと(aikoから逃げてしまう。自分がどれだけの強度でaikoを求めているのかがわからない)
・aikoの音楽と他の音楽との問題(aikoの音楽以外に俺に必要なものはあるのか?)
・aikoに対する人間的な憧れ(aikoのようになることと、森田療法による神経症の治療との兼ね合い。つまり森田療法による治療では、aikoの生き方とは遠ざかるのではないかという怖れ)

3月16日(月)13:26
aikoの存在が俺にとっての問題であり、同時に治療者であると思った。つまり、aikoから逃げていれば絶対に「この」問題は解決することはない(「この問題」とは「神経症」とイコールではない。「人生上の」問題だ)。

3月16日(月)16:07
当然、「日誌を書かなければ」という考えがあれば、自分の考える内容もそれに左右される。すると生活もそれに左右される。「何にも繋がれていない無重力で、世界の軽重を量っていきたいのだ」と言っていたではないか…繋がれてたら何も浮かび上がって来ないんだ…「痛み」が。自分が何かを手放していることによる「痛み」が。ただ、その中に「いる」だけで、「治療」は進むのだ。一秒一秒…結局、俺は去年の七月にこの「無重力」から引き剥がされ、半年を過ごしたわけだが、いざ2月にバイトを辞め、やっと半年振りに自分の一番望んでいた環境に戻ってきたばかりの時に、病院へ行ってしまい、自らその環境から「脱け出して」しまったわけだ。俺だって分かっていたんだよ。バイトを辞めたばかりの頃は、「自分の中からあいつの意志が抜けるまでにしばらくは時間がかかるだろう」と。つまり洗脳が解けるまで、ってことだ。まだ洗脳が解けていない状態で、それが自分の意志であると勘違いしたまま、病院に行ってしまったんだ。まだ俺は自分の意志に戻ってきていない。去年の七月で時間が止まっている。

3月16日(月)16:12
「一見、楽になったかも知れない。けどそこに何があるんだ」。そういうことです。
あの時はなんであんなに焦っていたのだろう。親を安心させるため?
「時間が過ぎている」ということにまったく責任が持てなかった。

3月16日(月)16:14
「病院へはいかない」。そう考えると少しだけ視界がひらけるような思いがした。

3月17日(火)17:50
何故アイコから離れたくないかというと、アイコを見た時に感じるものが一番信用出来るものであり、アイコを見ていない時の感覚を信用することが出来ないからだ。

3月17日(火)18:29
俺にとって一番重要なのは「生き物」だ。それは霊とも繋がっている。

3月24日(火)17:37
読むという行為自体に意味性が付与されている間は、当然見えてこないものも多い。

4月1日(水)19:09
演奏を通してその瞬間に生きるというか、瞬間を音に変換するとか、そういうの。文章じゃなくて、世界の瞬間の、顕在化。

4月5日(日)22:11
自分の意識が余りにも瞬間に注がれていると、音楽は限られた形でしか(極めて限られた形でしか)見えてこない。時間というものとの関わりに問題があると、当然音楽との関わりにも問題が出てくるというわけだ。

4月6日(月)0:36
再び通院すること

4月6日(月)12:00
安心していい。健康になったところでアイコへの愛はなくならない。
2012.02.27 11:40|未分類
3月15日(日)15:30
ドラムを練習したあとに鏡を見るといい顔になっているのが分かる。

3月15日(日)15:34
ドラムを練習したあと、不安というか緊張というか、どきどきした。それは自分が「呼ぶ声」と呼んでいたような感覚だった。漫画などを読むと、面白く読めた(感触があった)。音楽を聴くことに少し関心が湧いた。多分、自分はこの不安というか緊張というか、どきどきした感覚がおそろしくて、これから逃げていたのだろう。

3月15日(日)15:40
厳密に言えば、「速いテンポのメトロノームに合わせたエイトビートの練習」から逃げていた。

3月15日(日)15:55
ドラムをやったあとの実感よりも、aikoのインタビューなりを読んだり、aikoの動いている姿を見た時の実感の方が、リアルで手応えがあったのだ。だからそっちの方ばかりに気を取られていたのだと思う。実際は両方から逃げていたのだろう。

3月15日(日)16:07
そして、「呼ぶ声」というのは、自分が逃げているということを知らせてくれるものであると考えていた(こんなことをしている場合ではないという虚しさ)。俺にとっていま一番重大なのは、aikoの会報を読むことや、動いているところを見ることで間違いないだろうと思う。バランスが崩れているのだ。一番重要なこと、一番自分の求めているものに手を付けないでいるから、全体のバランスが崩れているのだ。

3月15日(日)16:08
いま、どきどきしている。息苦しい。緊張している。aikoを見なければ、と思う。

3月15日(日)16:12
そして音楽を聴かなければ、と思う。このどきどき、息苦しさは次の行動を喚起させるような性質を持っている。つまり、「逃げることが機能している状態」だ。

3月15日(日)16:27
会報を読んでいる。ドラムよりも遥かに手応えがある。崩すべきものを崩していくような。ドラムをやっている時に、この感覚はない。もっとすかすかしている。あれはおそろしい感覚だ。

3月15日(日)19:15
手応えというよりも、事実の蓄積をしていかなければならないということだ。逃げていれば事実として体験されない。会報などを読んで、「手応えがどう」とかを問題にするよりも、それが事実としてどう体験されるのか、それを見ていけばいい。気分本位ではいけないんだ。

3月15日(日)19:20
aikoの好きな漫画を読むこともそうだ。「aikoの好きな漫画」といっしょくたにするのではなく、それらの中でも読んだ時に起こる感想というのはそれぞれ異なるはずなのだから、それぞれを事実として体験しなければならない。

3月15日(日)19:35
「とらわれ」というのは自分の行動を割り出していくことか?「aikoを聴かなければならない」とか、「aikoだけに向かっていく」とか。それは事実として体験される。とらわれることにはとらわれるべき理由が存在する。

3月15日(日)19:39
夕食の間、緊張なのかわからないが、胸がどきどきし、息苦しくて吐きそうだった。殆んど食べられなかった。

3月15日(日)20:28
「aikoの音楽を聴く」という表現にしたってそうだ。曲によって受ける印象が違うのに。いっしょくたにしている。

3月15日(日)22:50
ひとつの仮説。「自分は楽器をやることには興味があるが、aikoの音楽にはそれほど興味がない」。「aikoの音楽しか要らないというほどには興味がない」というのは事実であると思う。他のすべてを捨てる程には。バランスがおかしいのだ。他のものがないがしろにされている。他の向上心が。

3月15日(日)22:52
だいたい、特にジャズに於いては、一度や二度聴いただけでは理解できない音楽が殆んどなわけだしね。

3月16日(月)0:25
「ジャズも自分にとっては大切だ」とか、こういう捉え方も間違っている。いっしょくたにしている。事実をありのままに見ないと駄目だ。

3月16日(月)1:20
自分の中に、aikoの音楽だけでなく、aikoの好きだと言っていた音楽や、漫画をすべて好きになれないと、aikoを好きになったことにはならない、という考えがずっとあったようだ。いや、いまもある。常に、「自分はまだaikoのことを好きじゃない」という考えがある。
2012.02.26 10:45|未分類
3月14日(土)17:56
aikoに振り回されている時期があった。二年間くらい?aikoから逃げている時は、aikoが呼んでいるような「声」が聞こえた(つまり、ある種の苦しさだ。自分に方向を示すような)。これは、自分の深い所にある意志なのだと思っていた。「逃げても向かってもいないのが問題なのだ」と考え、そういう状況を怖れた。aikoに向かってもいないのに、aikoの呼ぶ「声」も聞こえないという状況に。それはつまり、自分の意志をないがしろにしているのに、自分の意志がサインを送らない―つまり自分の意志の形そのものが変わってしまった、つまりaikoを求めていた気持ちが「殺されてしまった」、失われてしまったことを意味しているのではないか。それがおそろしかった。aikoの音楽を聴いた時に経験したものは、いままで生きてきて、一度も見たことのないものだった。aikoの音楽を聴いた時に見えるもの、それよりも価値のあるものはどこにもないと思った。これから先、aikoを見た時に、「それ」が見えなくなるのを怖れた。それだけ鮮やかだったのだ。いま、自分はaikoをそれほど求めていないのではないかと感じている。しかし、aikoの音楽を聴いた時に見たもの、それを超えるような価値を発見したわけでもない。ただ失われてしまっただけのように思う。

3月14日(土)18:00
事実としていえるのは、「とらわれ」を否定するような状況が半年間続いていたということだ。他人によって、「とらわれ」を否定することを強いられたのだ。俺は何故かそれに抵抗することが出来なかった。ただ、「これは間違っている」と強く感じた。体が抵抗しているのが分かった。直感で、「間違っている」と。考えるまでもないことなのだ。それなのに、「間違った」まま、半年間を過ごした。その半年の間に自分の意志が失われてしまったように感じている。

3月14日(土)18:01
「あるがまま」になったところで、aikoの音楽を聴いた時に見えたものが見えなくなるのであれば、なんの意味もないのだ。

3月14日(土)18:05
俺は素人の「医者」によって、間違った治療法を強いられたのだと思う。それで、人生を壊されたのだと思う。

3月14日(土)18:08
俺がずっと問題にしているのは、自分の「意志」に関することだと思う。何か(aikoに関すること)を求める気持ちが失われてしまうのではないか、失われてしまったのではないかという恐怖。

3月14日(土)18:27
また、「人間」というものを求めていたのも事実であろうと思う。(人間が生きているものとして感じられること。)その「人間」が感じられる状況が「あるがまま」と関係しているのではないかと思われだしたから、再び通院することを考えたのだ。音楽を聴いている時や、ふとした瞬間に「人間」が感じられること、これに優る美しさはない、というのは度々感じてきたことだった。このリアリティは、aikoの音楽を聴いた時に「見た」ものとも、ある部分で繋がっているのではないか?aikoの音楽を聴いた時に、そこに見出したのは、多くの場合「人間」だった。俺にとって「人間」というものが一番重大であり、それを最も見せてくれるものがaikoの音楽であった、と理解していたと思う。

3月14日(土)18:33
また、「人間」が感じられるのは、学校へ通っている生活だったり、アルバイトをしている生活であり、学校とアルバイトの両方をしている生活が一番、「人間」をリアルに、生き生きと感じられ、自分が生きている手応えを感じられるものだ、という仮説を考えていたこともある。一番「人間」が感じられないのは、学校へもアルバイトへも行っていない生活である、と。

3月14日(土)19:01
そして、「伏線が機能している」というのと、「逃げることが機能している」というのはどこかで繋がっているのかも知れない。ある程度自分の求めていることをしていないと、逃げることも機能しない、と。「伏線が機能している」と一番感じられたのは学校へ行っていてアルバイトもしている生活だった。この生活が、「伏線が機能して」おり、「逃げることが機能して」おり、「呼ぶ声の聞こえる」状況であるといえるのだろうか(これは一つの決めつけだ。だから、「それなら学校へ行ってアルバイトを始めれば万事解決ではないか」と考えることも出来なかった)。希望通りに生きている生活。

3月14日(土)19:20
aikoを好きだと感じていたのは、aikoの音楽を通してのことだ。俺が、この人のことを「自分と似ている」と感じたのは、インタビューを読んだりしてというよりも、音楽を聴いたことによるものだ。

3月14日(土)21:59
ドラムを久し振りに長時間練習した。いままでは、目的を決めずに、自分の気分を(「実感」と呼んでいたのだけど)問題にして、「いまの自分はドラムを求めているのではないか」という考えから、ドラムに向かっていた。今日は、ある程度目的を決めてやった。つまり「自由に演奏できるようにすること」。自分の頭の中にあるドラムの音をすべて実際に再現できれば、演奏活動をしないことに対するエクスキューズは存在しなくなるのではないか。

3月14日(土)22:09
今月中に演奏活動を始めるくらいじゃないと駄目かも知れないな。俺が今までに、こんなに目的意識を持ったことがあっただろうか?

3月15日(日)11:34
久々にキングクリムゾンのスターレスを聴いて背筋が凍る。

2012.02.26 10:39|未分類
3月10日(火)18:37
音程の悪いレコードプレーヤーで聴き慣れたために、同じやつをCDなんかで聴くと気持ち悪い。間違った音程に聞こえて、聴いていて非常にストレスです。

3月11日(水)23:14
さっきドラムをやってから、アイコを見ると痛みを感じる。怖い。リアルだから怖い。生き生きとした怖さだ。

3月12日(木)13:05
「実感として」とか、「自分の人生に対する納得」とか、そんなことはどうでもいい。現実として成功するか失敗するかだ。俺は本当に甘ったるい妄想の中を生きていたようだ。人生は想像でしかないと言っていた。想像なんてものはない。人生は現実だ。想像なんてものは機能してないんだ。想像なんてものはクロスしないんだ。現実がクロスするだけなんだ。想像と現実は混ざり合わないんだ。

3月12日(木)16:39
「何かを深く好きになれない」というのは前から感じていたことだけど、これは強迫観念だな。好きにならなければならないっていう。事実を認めてないんだ。臭いものは臭いんだ。

3月13日(金)15:55
テレビに出ているaikoを見ていると「好きだ」という言葉しか出てこない。

3月13日(金)16:26
aikoから長い時間(数時間)離れていると、胸の中が空洞になったようになり、「足りない」と感じるようになる。そこでaikoを見ても、その「足りない」感じがなくなるまでには相応の時間を要する。

3月13日(金)22:13
学校ってのは「aikoと出会うこと」の代替行為でしかなかったんだ、たぶん。

3月13日(金)22:27
「納得できないように生きることで、自分が何を失っているのかも分からなくなることがおそろしい」と書いたけれど、これは自分の心の中の問題にとどまらず、自分以外の人間だとか、自分を離れたところの物事にも影響を及ぼす。決して自分一人の問題ではないのだ。それは目に見える形となって現れる。

3月13日(金)22:30
普通は音楽は楽しいから聴くものなんだろ?けど俺がaikoの音楽を聴くのは、聴かないと死にそうになるから聴くというだけのことなんだ。《自分が立っている位置を知らせてもらうための確認行為でしかないんだ。》

3月14日(土)2:03
一秒一秒が過ぎるのが怖い。一秒ごとに失っているように感じる。

3月14日(土)14:02
どきどきしていて、それでいて意識がどろんとしていて、考えがある部分に触れると泣き出す。それでひとしきり泣いたあと、またどろんとする。また泣き出す。それを繰り返してる。

3月14日(土)17:12
「これは恋じゃない。神経症だ」。これと、aikoを見た時に「好き」という言葉しか浮かばないこととを綜合すると、「aikoを好きということに関連して、神経症的なとらわれがある」ということになるか。aikoを見た時に起こる感情から、「かくあるべし」が生まれている、と。

3月14日(土)17:41
俺が問題にしているのは、「aikoが好き」だということ、それとそのことによって「あるがまま」ではなくなっていることではないのか。(「aikoが好き」というのも、そのように感じる瞬間があるというだけで、正確な表現ではないのかも知れない。)
2012.02.25 23:18|未分類
3月9日(月)1:27
アイコ以外のものを見るのなら、本当に自分の求めているものじゃないと駄目だ。アイコに関係のない本なり漫画なりCDなりを買うのなら、よっぽどそれが自分にとって必要だと思わない限り、買うべきではない。たまにそういうものを買ったりすると、空っぽな感じになる。自分が、自分と無関係な世界にするすると引きずり込まれていくような恐怖を感じる。去年の七月に無理矢理にアルバイトを始めさせられた時に感じた感覚も、まさにそのような感覚なのだ。それで、「無関係な世界」の中で半年過ごした。いままでの人生で一番、生きている感触が希薄だった。その間に自分の得たものが「ゼロ」であったのかはわからない。何を失ったのかもわからない。これから時間をかけて、その半年間の間に何を失ったのか、また、その大きさを、理解していくのかもしれない。

3月9日(月)2:11
アイコに戻ってきた時に、手応えをどれだけ感じるか、それは「逃げることがどれだけ機能しているか」に比例すると考えている。アイコに戻ってきた時に、「自分は渇いていたんだな」と感じて、食欲のようなものを感じてアイコを見る。鮮やかに映る。逃げることが機能している時には、アイコが「呼ぶ声」が聞こえる。そういう種類の不安を感じるのだ。じりじりとした不安。先のある不安。自分に方向性を規定するような不安。自分の意志がある形をとったものだと考えていた。
そういう「呼ぶ声」も聞こえない、逃げることも機能していない、逃げても向かってもいない状態を、怖れていた(自分が何も得てはいない、という失うことの恐怖)。
このような感覚に価値を置くのは、神経症のとらわれを強めているだけなのかもしれない。「逃げることが機能している」というのは、ただたんにとらわれているというだけなのかもしれない。「逃げることが機能している」というのを重視している限り、神経症による苦しさや、生活の不具合はなくならないのかもしれない。そうでもないのかもしれない。自分にはよくわからない。
また、「逃げることが機能している」というのは、健康な生活や、精神の活発さとも関係しているようにも思われる。よくわからない。

3月9日(月)2:41
いまの生活は、精神が滞っているようにも思う。学校へ行き、アルバイトもしていた時は、人間というものが凄くリアルに生き生きと感じられたし、「伏線が機能している」と感じられた(Aのことに取り組んでいる間に、Bのことへ向かう意志が育まれる。意識が自由にいろんな所に行き交う)。「学校へ行き」、「アルバイトもしている」という生活の「型」が、俺の「あるがまま」なのではないか(これは一年以上前から考えていることでもある)。あるいは、ただたんに、「学校へも行かない」、「アルバイトもしない」という生活の「型」を選んでいる限り、生活に於いて、人間のリアルさだとか、生き生きとした感じだとか、意識がいろんな所に自由に行き交う感じ(「伏線が機能する」)がしない、それだけのことである、とも言えるのかもしれない。
いまの生活は、とても精神が活動しているとは言えないし、滞っているとしか言えない。自分で望んでこういう生活を選んでいる部分も大きいのだけれども。ただ、この精神の停滞した感じを、「学校へ行っている」とか、「アルバイトをしている」というような生活の「型」によって左右しているのだ、と考えることに疑問を感じている部分もあるのだ。つまり、「学校へ行って、アルバイトをしさえすればオーケー」という風に、形式ばった考えをすることに抵抗を覚える部分がある。
森田で、「緊張するべき時には緊張する」とかいうけれども、俺の場合だと、「学校へ長い間行っていない生活をしていると生き生きとした感じがなくなる」、そういうことだろうか。この、「生き生きとした感じがなくなる」という結果に対する条件、原因の方が「学校へ行っていないから」なのか、ただたんに不規則な生活を送っているからなのか、アイコから逃げているからなのか、ただたまたまそうなのか、そういう見極めが難しいのだ。森田は、「正しい自覚を得さえすればいい」と言っている。「自分の求めている方向性を理解し、それを得るために計画をたてて実行していけばいい」のだと。俺には「正しい自覚」が得られていないのだろう。それが得られなければ、「学校へ行きさえすればいい」「アルバイトをすればいい」というように、形式ばった、自分を理論に向かわせていくような近視眼的な生き方からは抜け出せないだろう。

3月9日(月)14:42
ふと、イヤーホンでアイコの音楽を聴いてみるが、強い抵抗を感じ、十秒と聴いていられなかった。ipodに入っている他のいくつかの音楽(アイコの好きと言っていた音楽)についても同様であった。頭で作った部分か。

3月9日(月)22:17
アイコから離れている時間が長くなると、自分はアイコに興味はないんだと錯覚するようになる。そうして自分が何から逃げているのかわからなくなる。どろんとした時間。

3月9日(月)22:29
イヤーホンでアイコの音楽を聴くが、なんなんだろうこの無感覚は。ざわざわと音が鳴っているだけだ。頭では理解できる。
今日はまだ会報を読んでいないのだ。

3月9日(月)22:49
アイコの音楽(新曲)を聴いている。無感覚…ではない。アイコの音楽から不自然に遠ざかっていたような気がする。自分の意志で遠ざかっているのだけれども、何故そうする必要があるのか、自分でもわからない。
しかし、それを言ったらアイコの音楽を聴くことになんの意味があるのか。聴かないでいることになんの意味があるのか。まったく馬鹿げたことだ。アイコの音楽を聴いてなんになるのか。なんの意味もないと思う。アイコの音楽を聴くことにも、アイコの音楽から逃げることにも。
少なくとも俺はアイコの音楽を愛しているなんて言えないし、アイコの音楽をどう思っているのかなんてアイコに伝えられる自信がない。意味がないんだ。アイコの音楽を聴くことにも、逃げることにも。なんで泣いているのかも分からない(笑)。意味がないんだよ。別に特別に生きたいと思うわけでもない。

3月9日(月)22:58
音楽を聴くことって、それが大きな経験になればなるほど、音楽を聴くことの無意味さが鮮明になるんだ。そう思わない?

3月9日(月)23:11
誰かに生きていて欲しいと望むことは身勝手なことだと思っていたけど、そういう考えは馬鹿らしいね。
2012.02.25 16:43|未分類
3月5日(木)22:57
アイコが好きだと言っている音楽に共通して見出される空気がある。その空気は、俺にとって馴染みの薄いものだ。だからそれを知らないことに欠乏感を感じる。スタイリッシュで冷たく抑制されていて、同時に肌に触れるような生理的、呪術的な感覚。内包された狂気。

3月6日(金)15:30
「逃げることが機能する」ことを重要視していたけれど、それは自分のある程度望んでいることでなければ、「逃げること」として機能しない。まったく関心のないことに取り組んでも、「逃げている」という自覚は得られにくい。ある程度楽しめる物事に取り組んで、それでも苦しくなったりすると、自分の向かうべき方向に軌道が修正されやすい。逃げてもいない、向かってもいないという状況が続いていくことに不安を感じていたけれども、それはいまも変わらない。

3月7日(土)1:45
リアルな物事を自分はずっと避け続けている。

3月7日(土)1:58
この二年間の間に感じてきたのは、自分の人生というものは、どこか違う世界にあるのだということ。その、違う世界にある自分の人生というものから逸脱しないように生きなければならないということ。自分の意志というのは自分の内にあるのではないということ。人が繋がり合うことがあるとすれば、それは「違う世界」で繋がっているのだということ。その「違う世界」にある自分の人生というものに対して敏感でないといけないということ。

3月7日(土)2:31
問題は、大きく捉えれば、神経症的なとらわれに陥っていることも「あるがまま」である、ということではないか。つまり「あるがまま」を意識することで、自分のとらわれを抑え付ける結果になり、作為的、技巧的、不自然な生活になり、得るところが少なくなる。俺はずっと、「自分の人生を生きている」と感じさせてくれるところのものと向き合って生きていきたいと思っていた。それを一番望んでいたように思う。それは今も変わらない。「これは自分の人生ではない」と感じながら生きていくのには耐えられないのだ。神経症だろうがなかろうが、「自分の人生を生きている」という手応えを感じさせてくれるところのものと向き合って生きていきたいのだ。

「自分の人生は失われてしまった」という感覚がある。去年の七月まで、自分は上に書いた「違う世界」にある人生を生きていたように感じていた。しかし、七月にある人間によって無理矢理にアルバイトを始めるように仕向けられた時から、その「違う世界」にある人生の流れは中断させられてしまった。それからの半年間は、常に「自分の人生を生きていない」という感覚があった。もう取り戻せないし、まだその影響下にあるようにも感じている。去年の七月以前までの、「違う世界」にある人生を生きている感じというのが、もう思い出せないのだ。それは自分にとって最も重要なことであったはずだ。

あいつは俺に自分と同じ考えを持たせたかったのだろう。それで俺はあいつの価値観に従わせられることになった。いまでもそれは継続している。「侵略された」という感じがする。「あいつの望むような人間」に近づいているような気がする。

3月7日(土)13:03
何かをしていて、「こんなことをしている場合なのか」と感じることはしょっちゅうである。かといって、何をするべきなのかは分からない…いや、わかっているはずなのだ。

3月7日(土)14:05
家に帰るとわけもなく楽しい気分だった。なんでだろう?

3月7日(土)20:04
八時。いまのところまだ疲れてはいない。疲れる前に寝ることにする。

3月7日(土)20:57
九時。疲れてきた。体の中の血がざわざわ言っている。心臓の鼓動が耳に響く。欠伸も出た。肩も酷く凝っている。鋭い、刺すような凝りだ。いろんなものが神経に障る(特に音。)。それでいて体はどろんとしている。

3月7日(土)22:33
今日の日誌へ追加。
大体、「それ」がどこからやってくるものなのかを理解していない以上、それを永久に手放したといいきることは出来ない。

明日は家から出ないことにする。
夜十時。特に音楽を聴こうという気にはなれない。

3月7日(土)22:58
アイコの好きな音楽<アイコの好きな漫画である。音楽においては、アイコよりも重要な音楽は何もない。だから、アイコの好きな漫画を読むことによってアイコの音楽と向き合うことがおろそかになるのは仕方がないにしても、アイコの好きな音楽を聴くことで、アイコの音楽と向き合うことがおろそかになってはいけないのだ。極論を言えば、音楽はアイコ以外を聴く必要はない。いうまでもなく、「アイコの音楽を聴くこと・アイコの会報を読むこと・その他、アイコ自身を見ること」>「アイコに関わるものを見ること(アイコの好きな漫画、アイコの好きな音楽など)」である。アイコ以外の音楽のCDを買うということは、それによってアイコの音楽を聴くことが侵食されるということだから。
2012.02.22 23:39|未分類
3月2日(月)20:31
ドラムをやったあと、妙にどきどきした。以前まで、毎日のように感じていた感覚と同じである(病院へ行ってのちのこの数日間は感じていなかった)。このようなどきどきを感じると、自分がいま何をすべきかということを考える。「どきどき」が、自分のやるべきことと関係しているように考える。「どきどき」が、自分のやるべきことを指し示すのだ、と。リアリティもあるように感じる。

3月2日(月)20:40
ソリッドな不安

3月2日(月)22:02
その一方で、このような生活は物凄く機械的で、中身のない時間の過ぎ方をしているようにも感じられる。一秒一秒を生きているような感覚が皆無なのだ。ふわふわしているように感じられる。

つまり、ソリッドな不安、不安が方向を指し示すように見えるからこそ、自分の行動の仕方はチョロキュー(ぶつかると方向を変える、真っ直ぐにしか進めない玩具の車)のように、真っ直ぐにぶつかっていき、何かにぶつかっている最中はいいが、それが一段落つくと、すぐに次に向かうべき方向を見失い、不安になってしまう。

3月2日(月)22:30
ドラムをやったのは失敗だった。

3月3日(火)3:07
常に「失っている」という感覚がある。

3月3日(火)11:42
リンダとかの音楽を聴いて楽しむことは出来ても、手応えはない。アイコが好きだと言っていたアルバムを聴くと手応えがある。足りないものが埋まっていくような感覚がある。

3月3日(火)23:40
自分の理想と現実生活を一致させるように努力しなければならない。

3月4日(水)3:38
時間が過ぎていくのが怖い

3月4日(水)3:47
「好き」という気持ちがあれば、失う恐怖がつきまとう。

3月4日(水)15:49
アイコの存在云々の前に、俺は演奏家でなければならない。これは俺の希望によるものだ。アイコの存在に関係なしに。アイコの音楽に出会わなくても、俺は演奏家になることを望んでいただろう。

3月4日(水)16:02
アイコのDVDはまだ開けていない。いとおしい感じがする。

3月4日(水)16:41
もう長いこと、自分が何かを楽しいとか心地いいとか、それに対して少しでも興味を感じた場合、すぐにその場で「自分はこれが好きなのである」というような型を作るというようなことを繰り返していたと思う。型が出来る前に新たな現実を経験していく。絶えざる現実。
現実が言葉によって表すことのできるものだと考える習慣がある。

3月5日(木)1:22
人生は文字通り二度とないのだ。生きている間くらい、100パーセントに楽しんで「当たり前」だろう。
死ねばゼロだ。生きている間くらい、プラスにならないでどうする?

3月5日(木)2:01
俺は欲の人間なんだ。欲を発揮していかなければならない。

3月5日(木)2:11
レコードプレーヤーで音楽を聴くことを想像すると、「喉の渇き」のようなものを連想する。聴きたかったのだろう。これが欲するということか。

3月5日(木)2:21
深夜二時。12時半から床に就いているのだが、未だに眠られないでいる。レコードプレーヤーで音楽を聴いてみた。デイブ・ブルーベックのディズニーのアルバム。針を落とした時の「ぼすっ」という音。音楽が始まるまでのぷちぷちという音。ピアノの音。柔らかい。柔らかくしなやかな、ピアノの音。部屋の空気が豊かになるような、匂いがしてくるような音。レコードが一番いい音なのは間違いない。しかし、いま使っているレコードプレーヤーはピッチが狂っているので、使うのをよしていたのだ。ということは、新しいプレーヤーを買う必要がある。

3月5日(木)2:24
ベルトドライブのレコードプレーヤーについて真剣に考えなければならない。あとミニスピーカー。音のよさは俺にとって重大だ。
2012.02.22 18:25|未分類
2月24日(火)23:05
事実をありのままに見れないというのは、逃げている物事があるからであって、「事実唯真」とか念じてみても仕方がない。それに取り組まないから、現実を離れた想像が成長し、それによって事実をそのままに受け入れるのが困難になっているのだから。逃げていることによって、(自分の逃げている)現実に対する誤った認識があるのだから。これを置いておいて「事実唯真」とか念じていても、生活は技巧的になるだけで、不均衡なままだろう。

2月24日(火)23:33
とらわれを否定することに最も強い抵抗を覚える。自分の希望は全力でとらわれていくことだろうと思う。

2月24日(火)23:38
今までの自分の生活には確認行為が物凄く多かったように思う。そうやってその時々の現実をそのままに受けとめずにいたようだ。

2月24日(火)23:59
不安がやってきた時、「不安になっているということは、俺は自分の希望から遠ざかっているということだ。何かに取り組んで、逃げているようなふわふわとした不安ではなく、もっと現実的な痛み、感触を感じられること(それは自分の求めているものである)を探し、それに取り組まないとだめだ。不安を感じるというのは理由があって、おそらく自分の希望を不自然に否定しているから、自然の生の欲望が不安という形で現れているのだ。これは危険信号なんだ」と考え、逃げているような手応えのない不安を感じる度に、「自分の求めているもの、自分が逃げているであろうもの」を探そうと努めた。その結果、「自分の希望に戻ってきた」と感じ、手応えや生きている実感を感じられることも多々あったから、ずっとこのプロセスを繰り返してるのだと思う。しかし、これは凄くデジタルな考えだと、いまは思う。「絶えざる事実の否定」であると思う。

2月25日(水)0:10
自分の希望というものの捉え方がおかしかったのだろうと思う。「自分の希望」というものを探ろうとして、その時々に起こっている物事を見ようとしないで、かえって逆に自分の希望というものが判らなくなっていたんだと思う。

2月25日(水)0:58
実際、どこまでが「自然」でどこまでが「不自然」なのかがわからない。境界があやふやになっている。

2月27日(金)14:53
子供、三つ子。五センチくらい。産まれたばかり。俺の子供。産まれてからの対処の仕方がわからない。水をやった方がいいのか?三つ子をいじっているうちに、足が外れた。足をまた元のようにはめた。
カンカワ。恐水病。恐水病であるカンカワが、俺に息を吹きかけてきたり、べたべたしてくる。恐水病は唾液によって感染すると書いてあった。唾が飛んでくる。

工場。彼女らを追い掛ける。ばれる。糾弾。逃げる。

2月28日(土)17:02
あるがままとは言っても、信用できる感覚とそうでない感覚とがあるのだ。間違ったことばかりをしてしまうような。アイコに向かっている時に感じる感覚がいちばん信用できる。だからいままで、意識的に自分をアイコに向かわせていこうと努めていたのだ。「自分は間違ったことをしている」と常に感じながら生きていくのは苦痛である。

3月2日(月)17:07
音楽、こんなことをしていて一体なんになるのか
考えたくもないことを考える
電気ドラムに自分を向かわせてはいけない

3月2日(月)17:49
あるがままになるのは難しい。しかし、果たしてそうなる必要があるのかとも思う。

3月2日(月)17:56
この胸の痛みが、自分が地に足をつけているように感じさせてくれる。あるがままだろうがなんだろうが、この地に足をつけている感じ、胸の痛さ、胸のあたたかさが自分にとって一番価値のあることなのであって、これを失うくらいなら生きている意味はない。それがつまり俺にとってのあるがままなのかもしれないが。俺の人生上の希望は具体的に目に見えるものではない。「~になる」とか、「~をしたい」とかではなく、この痛みの中にしかない。

3月2日(月)18:02
なんでアイコの音楽から逃げる必要があるのか?「あるがままであるために」。何故「あるがまま」でなければいけない?
2012.02.22 00:05|未分類
2月22日(日)9:30
神経症がどうとかではなく、俺が「現実として」何年もの年月を無駄にしていることが問題だ。問題は、俺が何年もの長きに渡って、「何もしていない」ことだ。自分を欺いているのだ。

2月22日(日)11:06
「あるがままはなろうとしてなるものではない。人生上の問題に(そこから目を背けずに)取り組んでいるときに自然になるものであります」というのは理解出来る。

2月22日(日)11:41
劣等感を感じられないというのは、劣等感を感じられる状況を避けているからである。だから、希望も感じられない。

2月22日(日)18:58
こんなに音楽が生き生きと聞こえたのはいつ以来だろう。

2月23日(月)20:01
・ある強迫観念によって、生活全体が不自然なものになり、そのために学校も殆んど行けていない。

・学校は卒業したいらしい。しかし、優先順位(自分の求めている強度)としては一位ではない。強迫観念、つまり自分の強く求めているものに、素直に向かっていくことが出来ないために、学校を含め、生活全体が不自然なものになっている。

・いまの自分がやるべきことは、自分の避けていることに取り組むことだろう。それをしなければ、優先順位二位以下のもの(学校など)に対しても、全力で取り組むのは困難だろう。

・なんヶ月かに一度、「自分の生き方に戻ってきた」と感じることがある。長くは続かない。それを求めるために、学校へ行くのをやめたりしている。

・村上春樹「ぎりぎりのところまで行かなければならない」「それをおびきだすためにはおいしい餌を与えなければならない」これが出来るのは、学校へも行っていない、アルバイトもしていないという環境に限られる。

・それを避けることによって、生活が不自然になるような、人生上の問題がある(自分のいちばん強く求めているものである)。しかし、それに真っ正面から全面的に取り組めるかというと、邪魔するものが多い。学校とか。いや、学校だけか?それとどう折り合いをつけていくのか。「明け暮れ、自分の恐怖しているもののことを考えていればよい」というが、それを許さないような環境がある。

・自分で自分の生き方を決めて、そのことに責任を持つことを否定され、自分の生き方を他人に決めてもらい、自分の人生の責任をその赤の他人に任せることを、強制させられた。

2月23日(月)20:17
俺の求めている「治療」は(「癒し」と言った方がいいか?)、神経症の治療ではないのだと思う。いま経験している神経症的なとらわれも、人生上の必然であろうと思う。

2月23日(月)20:20
・まず、自分が神経症の治療を望んでいるのかがわからないということ(そもそも、何をもって「治療」というのか?)。

2月24日(火)17:55
・事実をそのままに受け入れる姿勢がなかったのは事実のようである。常に自分を理論に押し込んでいたように思う。気分本位であったと思う。
・生活全体が不自然で不均衡なものになっている。

2月24日(火)18:04
自分の向かうべきから遠ざかれば遠ざかるほど、理論に傾くようである。

2月24日(火)18:22
自分にとって重大な物事がある→見るのが怖い、だから見ないようにする→不安になり、空っぽな感じになり、現実感がなくなる、手応えがなくなる→この感じ(苦痛)をどうにかしようと、理論に当てはめていく→自分を常に理論に当てはめていくようになる。空っぽの感じは消えない。生きている感触も戻らない。
2012.02.20 23:35|未分類
2月18日(水)16:38
自分で自分の生き方(行動の選択肢)を制限している、というのは前から感じていたことだ。

2月18日(水)16:39
絶えざる事実の否定が苦痛を生んでいるのかもしれない。

2月18日(水)16:45
「学校に行っている時は、あのように感じたこともあったじゃないか」、というのは理論に過ぎない。「あの感覚をまた感じたいから学校へ行く」というようになってしまう。しかし、「学校に行っている」→「あの感覚を感じる」というように単純に図式化できるものなのか?もしそれが間違っていたら?そんなのをずっと繰り返していくの?

2月18日(水)17:52
理論というのは、ある程度までは現実と一致するかもしれない。しかし、一致しない部分で、苦しまなければならない。

2月18日(水)18:09
アイコの、「私は楽しむためにはどんな努力も惜しまない」というのは、沸騰した湯に触れれば火傷するということを理解した上での発言であると思う。

2月19日(木)17:03
常にいま感じている感覚は異常なのだという感覚がある。だから、理論に従わせる。もし、正しいと思える感覚がやってきた時に後悔したくないから。理論というのは、「これをやっておけば後悔することは最少に抑えられるだろう」というようなもの。問題は、「正しいと思えるような感覚」というものを経験したことがある、ということなのかもしれない。その感覚に振り回されている部分は多いにある。その、「正しいと思えるような感覚」が、どのような条件によって現れるのかを知ることは意味のあることと思う。ずっと、それを求めているように思う。この半年くらいの間、それは学校に行っていて、かつアルバイトもしている時に得られるものと理解していた。しかし、この理論(推測)も間違いが大きいのかもしれない。実感から始まったものではなく、記憶から導き出した理論だからだ。また、最近になって、俺のずっと求めてきた(とらわれてきた?)「正しいと思えるような感覚」というのは、「あるがまま」なのではないか、と考えるようになった。ならば、常に存在している「事実」をそのままに感じることのできる習慣を身に付けていくしかないだろう。

しかし、事実を素直に受けとめることの容易な環境とそうでない環境とがあると思う。そうでない環境というのも、自分が事実をありのままに受け入れる習慣をなくしたために理論に従って選んだ環境というのがそういう環境になると思うのです。いちばん最初で間違えてはいけないのです。だから、俺はしばしば、「いちばん最初」に戻って来ようとしたのだろう。自分を理論に従わせなければいけない「流れ」が出来ていて、何もかも捨ててしまわなければ、事実をそのままに感じる習慣を取り戻すのは不可能だろうと(そういう風に考えて学校などから離脱しているのではなく、理論に従わせる習慣、流れが出来ていて、そこから抜け出すのが困難であって、現実感がなくなっていくのが苦痛であり、それに耐えられなくなって離脱していたんだと思う)。

2月19日(木)20:38
しかし俺は思うのだ。苦しくなることが重要なのだと。俺は、この苦しさを通して、自分がそれをどれだけの強さで求めているのかが知りたいのだ。それが俺の「希望」なのだ。(この何も見えなくなるような苦しさを通して。)
それは森田のいう「苦痛そのものになりきる」ということだと思う。

2月21日(土)18:20
「逃避である」と感じられる行動はある。アイコから逃げている場合である。アイコ以外のCDをツタヤでレンタルしてきた時などは、空っぽに感じられる。なのに、それを何度もやっている。何度も空っぽな感じを感じている。見当違いなものを買ったために、本当に必要なものを買えなくなることに恐怖を覚える。しかも、問題は、「逃げることによって自分の求めているものがよりはっきりするのだ」と、逃げていることを正当化していることだ。何故、正当化しているのだろう?

2月21日(土)19:03
自分にとって重大なものを怖れるというのは、正常な心理だと思うけれど、そこでなんらかの不自然なものが働いているから、その恐怖が増大したり、その怖れているものにいつまでも取り組むことが出来ずに、徒に年月ばかりが過ぎているのではないか。

2012.02.19 23:29|未分類
2月16日(月)15:50
アイコのキャプチャー画像などが、たまに掲示板などに上がることがあるが、それを見ると、その人がアイコのどのような所に魅力を感じているのかがわかるような気がする。しかし、大体は俺がアイコに魅力を感じている所のものとは一致しない。たまに見ていて思うのだけど、アイコの表情だとか、すごく単純化された部分しか見ていないと感じさせるような画像があるのね。白か黒か、っていうデジタル的な見方が、キャプチャー画像に明らかに現れているなあと感じられることがしばしばある。単純化された「かわいさ」。俺がキャプチャー画像を作ると、変な顔をしている所だったり、単純な言葉(「かわいい」だとか)に還元されえないものになることが多い。そういうのを捉えているのだから。一種、写真家の腕だ。これはそもそも世界の見方、捉え方の問題でね。俺は、世界を捉える時、それを言葉に置き換えることを極度に嫌うの。言葉に置き換えることで、その言葉を理解しただけで、その「世界」そのものをも理解したと思い込むようなことを嫌っているの(そもそも、彼にとっては、「世界」と「言葉」はわかたれていない。いや、世界は言葉に従属するものである、と考えている、無意識のうちに信じ込まされている人間が、世界には多くいるのだ!!)。世界というものは、いうまでもなく、言葉が存在しようとするまいと存在するのだ。いや、「言葉」が存在する故に世界の存在がなくなることもあるのだ。彼は、「そこにしかない現実」、つまり森田のいう「事実」、禅でいう「一」をまったく意に介せず、言葉のいいなりになっているのだ。

2月16日(月)15:59
大事なのは、遠くで戦争が起こっていることを知識として理解して、頭で戦争反対を叫ぶのではなく、誰か一人でもいいから、他の人間の恐怖を「感じる」ことの出来ること。頭で「理解」しただけでは何も変わらない。一人よがりの言葉遊びになって終わりだ。

2月16日(月)17:12
今自分がやるべきこと、それはこの世界に慣れなければならない。この家に。24時間家にいられるのだから。この家でどのように過ごしたらいいのかまだ全然わかってないじゃないか。

2月16日(月)19:24
学校へ行かずにずっと家にいる生活をしていると、感覚が研ぎ澄まされていくのだ。その感覚は、自分の求めているものを鋭く明確にしてくれる。この感覚が感じられる状態を求めている。生きている実感とも関係がある。この感覚が麻痺した状態は、現実感のない状態でもあった。俺は生きている実感の方を取る。充実感、「正しいことをしているのだ」という実感の方を取る。この状態の時には、感覚が鋭くなっているから、対人恐怖が強くなっているというか、人と会話するのが難しくなっていたような気がする。けれども、ここ何年か、対人恐怖を感じても、それを苦に感じたことはない。俺はいま、対人関係と離れた所にあるものを求めているのだろう(却って対人関係は邪魔なだけだ)。

2月17日(火)4:52
学校を中退してフリーターになった時のことを想像すると、あゆみブックスで働いていた時のことを思い出し、凄く暗い気持ちになる。物事を落ち着いて見られていないのだから、いま退学を決定するなんて無理。まともな考え方が出来ているとはとても言えないんだから。というか、卒業したいだろう。

2月17日(火)5:17
「現実」ということをあまりにも考えてこなかった。それは大学のことです。つまり、自分の現実的な「将来」のことでもあります。それをあまりにも考えてこなかった。将来について現実的に考えなければいけない。気付いたらこんなところに来ていた、という感じです。まず、通院か?

2月17日(火)5:47
●去年の七月まで、俺は完璧な人生を生きていたこと。「いま」の俺の問題は、去年の七月に、俺の人生を破壊されたことにあるんじゃないか?その破壊された人生を如何に取り戻すかが問題なのではないか?

2月18日(水)1:47
俺がアイコを好きなのかどうかとか、大学を卒業したいのかどうか、一度、アイコを好きなのだということにして、大学を辞めることを考えて、楽器をやってみることにするか、と考えた時、自分をそういう生活に放り込んで、もう戻れないようにした所で、もしアイコが好きじゃないとわかったら?学校を卒業したいと思ったら?楽器なんてやりたくないと思ったら?それも、頭による決めつけというか、「あるがまま」でない、神経症的なとらわれが関係していると思う。

2月18日(水)3:35
神経症的なとらわれの具体的な例。12月に、学校が終り、寝る時に足がすごくだるく、精神的にもマイナスになっていた。それを自分がアルバイトをしていないために起こるものだと推測し、次の日にすぐにアルバイトを始める電話を入れた。これで自分は救われると思った。

2月18日(水)3:42
「家にずっといる」と感覚が研ぎ澄まされていくというのは正しいのかどうか。「家にずっといる」だけで感覚が研ぎ澄まされるわけではないと思う。家にずっといる生活をしながら、ある日とその次の日の区別がつかないような、日と日との境界の溶けあったような、しかも感覚の殆んどぼやけたような日々を過ごしたこともあった(あっという間に過ぎていった)。つまり、家にずっといさえいればオーケーというものでもなく、家にいても、よりよい過ごし方というのもあるし、悪い過ごし方というのもある。それは例えば、規則正しい生活をするとか。体を全然大事にしていないのだ。それも、事実をそのままに見る習慣を失っていることと関係があるのだろう。
2012.02.19 23:22|未分類
2月13日(金)18:50
夏にアルバイトしていて、漫画を読んだりしていた時、手応えというものは殆んどなかったように思う。自分の頭の中の空洞をがりがりとしているようだった。いま自分のやっていることが正しいのか、正しくないのか…そういう恐怖を感じながら過ごすのは、もう嫌だ。そういう状況は異常なのだから。そういう状況の中で頑張ったって、消耗するだけで、なんの成果も得られない。何故、自分が、「いまこの瞬間に何をするべきかわからないのか」、その原因の方を問題にしなければ、状況は変わらない。はっきり言って、夏のバイトの2ヶ月間は、金を稼いだこと以外はなんの進歩もなかった。金を稼ぐために、他のすべての物事を、生活そのものを犠牲にした。その金は、不必要なものに使った。考えることも出来なかった。二ヶ月が過ぎただけだった。無駄に過ごした。理論にとらわれたために、無駄に過ごした。自分にとって何がいちばん大切なのか?それを考えなければならなかったのだ、その二ヶ月間の間に。呑気に金を稼いでいる場合ではなかったのだ。その二ヶ月間を、金を稼ぐことだけに費やしたために、十月から学校へ行き始めても、すぐに行くのを止めることになった。自分にとって学校が必要なものであるのかが、自分にとって何がいちばん大切なのかがわからなかったのだ。それを「考える」ための時間を無駄に費やしたんだからな。自分にとって何がいちばん大切なのか?何がしたいのだ?

2月13日(金)23:23
一つの事実―あいつと会うと死ぬほど疲れる。合わせなくてはいけないから。あいつの気に入るように振る舞わなくてはいけないから。それを強制してくるから。自分に合わせるのを強制してくるから。もう会いたくない。
あいつは「こうじゃなきゃいけない」というのが余りにも強すぎる。それにそれを他人に強要してくる。それに対して抵抗するのに物凄いエネルギーを使う。いろんな知識を、「知ってて当たり前」という風にこちらに振ってくる。「知らないのは悪だ」と。それに合わせるのに物凄く精神的に、身体的に消耗する。押し付けがましいのは本当に大嫌いだ。
あいつと会うだけで神経症も悪化する。「かくあるべし」を押し付けるからだ。

2月14日(土)0:37
何を信じたらよいのでしょうか。人生はかようなまでに複雑なのである。俺は生きているのである。

2月15日(日)14:05
あるがままより尊いものはない。

2月15日(日)14:54
神経症を経験し、それを克服した人の文章には、落ち着いていて、透明な雰囲気がある。神経症の只中の人の文章は、ちぐはぐで不自然で強迫的で短絡的で落ち着きを欠いている。そして結論を求める。

2月16日(月)2:56
あいつは俺がアイコを好きなのを許せなかったんだろうね。俺がアイコを好きでいること、好きになろうとしていることを邪魔しやがった。そうすると、俺は何か、アイコ以外のものを好きになったかというと、何も好きにならなかった。アイコも、もう好きだとは感じられなくなっていた。当たり前の話だ。半年間、半年間だよ。半年間、アイコを好きでいることから遠ざけられていた。一人の外部の人間の手によってね。俺に恨みでもあったのかね。

2月16日(月)12:56
忙しくなった時に自分がとらわれるところのものに、時間のあるうちにどんどんとらわれていった方がいいのではないか。とらわれるというのは、ある種、自分の手をつけていないことから起こる妄想によるものなのだから、それと向き合えば、実際になり、妄想は消える。忙しくなった時にとらわれる観念は、自分の手をつけようと思ってはいるが、まだ手をつけていない物事のあるために起こるものだろう。だから忙しくなればなるほど、落ち着かなく、そのことにとらわれる。自分にとって最も重要なことだからだ。時間のある時に、思い切りとらわれ、妄想を可能な限りなくしていく努力が必要かと思う。いままでは、「時間」に委せていたが(とらわれる時はとらわれる、とらわれるかあるいはとらわれないか、どちらかに自分を向かわせていく必要はないだろう、と考えていた)、それが逆に不自然なとらわれとなっているのではないか、とも感じる。とらわれるべきか、とらわれざるべきか。とらわれることも、自分の欲望によるものであるから、俺は自分の欲望を理解していないのだ。

2月16日(月)13:03
しかし、その一方で生活全体が「かくあるべし」に支配されているのも事実だ。それによって物事が極めて限られた形でしか視界に入ってこない。そのことによる生活の不自然さを強く感じている。

2月16日(月)13:24
あと、問題は、ここ一年くらいの間に起こったことが、現実に起こったことのように感じられないことだ。しかし、「現実感」については、七月以降の半年間が、著しかったわけで、いまは現実感を回復しつつある。「数年前から継続して経験している神経症的なとらわれ」によるものであるというよりも、この半年間の、個別の現実感の喪失であると思う。この半年間は、いままでのどの時期よりも、神経症の強い半年間だった。自分の生き方を否定している、と強く感じる半年間だった。「現実として」、この半年間を失ったことが、俺にとっては大きい。

2月16日(月)13:28
今自分が問題にしているのは2つあって、自分がこの半年間を「現実として」失ったこと、それが神経症のとらわれとどのように関係しているのか(そのような状況に陥ったのは、神経症的なとらわれがあったためではないのか)、いまも神経症的なとらわれがあるとすれば、これから先も、判断を誤るだろう、というのを感じていること。

2月16日(月)13:40
「感情の特定の原因を突き止めるのは不可能であり意味がない」というが、俺は自分が「向かうべきものから離れているから、いま落ち着かないんだろうな」と感じることはある。むしろ、自分からそういう種類の(自分の希望を浮かび上がらせるような)落ちつかなさが、現れやすい環境にとどまり続け「たい」と思っている。want だ。しかし、学校のやってくる時期になると、学校へ行くのかもしれない。卒業を望んでいるのなら、行くのだろう。「あと一年、学校は行かない」となると、卒業自体が困難になる。
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